さて次 奉戴踊りの由来 @日吉神社の宮司いわく
奉戴踊りの由来
顕家の近臣桑折五郎は顕家が石津で敵のかこみを受けた時、顕家の命により囲みを
抜けて霊山城にかえり最后の状況を伝えたが、その頃霊山の攻撃も激しく、五郎は
松代姫を伴い霊山を脱しようとした。しかし、その脱出は中々容易でなかったので
、一計を案じ、いろいろに形相をかえ、旅芸人をよそおって、主従七人、そのほか
供の者十三人をもって行方郡江垂村におちのびた。そして、中館に山王、熊野、
に相馬家の家臣の属将として田中城主(鹿島町北右田)となった。
霊山城脱出の際の異形の踊りは奉戴踊りとして今に伝わっている。
また山上村横川(相馬市)に松母姫塚があるが、これが松代姫の塚であるとも
云われる。伊具郡の大江良定は娘松代を霊山城に給仕に差し上げたところ、顕家
の寵を受けて、姫君顕を生み、松代の兄良諄はこれを養育して、成長後、勅許を
弔ったという。
あと、何度も書くが、百済だお前らは。
本尊は阿弥陀ですって流したのさ。その時、リアルタイムであたしは書いた。
は???って。お前らの本尊は今まで薬師如来できてただろって。
ほんで、霊山神社の記録から、ちゃんと第二子が奉戴踊りの抱いてる子だって
出てんだよ。
その丸森の大江んとこで引き取ったのが第一子のほうじゃねーの??
しかも、阿弥陀持ってねぇーし。
あと霊山を焼いたのは、うち つまり(源)多田だっつーの。
そんで仏像を黒塗りして移動させたんだから。そこもお前ら知らないだろ。
あたしの口から出て、はじめて知るレベルだろ。
ほんでな。さいさん書いてるとおり、桑折はその七人の中に居た??
かもしんねえーが、権現として預かっておさめたというのは、桑折の腹では
できねえーんだっつーのよ。
うちは顕家の子供と仏像を預かりうちに入れた多田なんだっつーの。
それすら、どこの文献にもないっていう、集団の捏造によって消された事実
だったんだっつーの。
しかも、霊山から来るとき、どうやって権現さまを移動させたか わかるか??
それすら文献に出せてないだろ お前ら!
それをな。佐須経由で上真野方向へきたんだ。なんで佐須かわかるか??
うち河内源氏なんだっつーの。
んだから、山津見神社と霊山神社のとこは、本当のあたしんちの拠点だったわけ。
頼義の像が立っててもおかしくない場所 それが山津見神社だ。
狼信仰あった場所として有名なんだろうが・・・・。
はて、こういう文献から辻褄合わないことがでてくんだ。
まず霊山神社とあたしんちの関係 まったく載せてないよね 森しずお。
なんであたしんちが霊山の世話役にもなってたか、そんぐらいの立場なのに
あえて出さないっつー意図的行為は、世間によーくみえるだろう。
あと、江垂に関してのデタラメ作文な。
うちの先祖が宮司やってた上で、ここまでそこらじゅうが捏造に関与していた。
ということで、休む。