大浦為信により浪岡北畠氏は 滅亡


青森浪岡んとこにあんのはうちから盗まれたもの

たぶん岩倉のとこと浪岡のとこ

二手にうちのものが流れてる

そしてこれらの交差点はどこか 中継地点はどこかと言えば

人殺し相馬なんだよ

相馬を中継し 京都の岩倉んとこと青森浪岡のとこに何かが行き来あったんだ

と言ってもある時代は行き来なんて一切なかっただろうけど

系図ありますなんつーのはさいさん言ってるとおり うちは大昔から相馬人殺し

に土足であがられて系図古文奪われてっから。

あと與惣治 吉左衛門の時 あとは源孫の時 それぞれ骨董品やがうちに出入り

していた

そのうち 相馬の人殺しどもがうちから3万両貸して 3万両貸して 3万両貸して

といったこの9万両の一口に関してこの人殺し囚人たちは長持を持参しその借用書

を出せと恫喝し借金の肩代わりだといってあのどうでもいい嫁入り道具の箱

九曜紋いりの品物をうちにぶんなげていった

そしてこんな事をする囚人人殺しタカリがいることで放火も何度も合い

預けるものは預けた先が火事だなんだと言って そんなものも何度もある

そういう火事場泥棒で出されたものを相馬の囚人罪人らが運び そいつらから受け取

りして、自分らの出目を作ったんだろと言ってるんだ



そんな血統 誰が評価し誰が価値あると見てる??

そんなもの出してるから一人残らず殺せと言いたくなんだ

当然相馬一覧も同様



うちのを使って偽り 他所では 顕家さまのお子さまですがそれはそれはって

お茶出したり オヤツくれたり 食事提供したりしたんだろ

泊まってください いや これ差し上げますなんて言われて

さらに顕家の子孫語るのがやめられなくなった

それがお前らだ



そして当の顕家子孫は 確かに隠れてはいたものの一部からは重宝がられただろ

だから埋蔵金もうちで発掘 しかし当時霊山落城の際は赤子で顕成は北畠軍の

なんやかんや 顕家の遺産はこーであーでが理解できるものではなかった。

だから数年は真野に隠れ その後中舘に移動してから十年前後か

いろいろと周囲環境を探りながら自分の役目をわかるまで中舘で待機してたんだ。

京都へ向ったのは顕家が公家だったから公家の仕事を勉強しにいったんだ

それは鹿島から出てるはずだ。そこに顕家遺産置いてるのになんで青森だ京都だと

移動できんのや・・・



京都に公家の仕事を勉強しに行って3年くらい修行してから鹿島に戻ってきてるの

だって結局は山王大権現と熊野権現が父親の形見だからでしょうが。

これを浪岡サイドは一切わからない

流れたものを書いて 血を引いてますと言ったところであたしとは関係ない。

そこで3年ほどの修行の後に消えたとされてるのは鹿島に戻り本尊をいかにして守り

そこで生きていくか考えて決めたからに他ならない。

だから修行してきてたから中舘で神事ができたんだ。

後醍醐天皇のために忠死した北畠顕家の遺児であることから、南朝で相当の寵愛を受けていたであろうと想像されるが、それを物語る史料は確認できない。正平一統正平7年(1352年)1月従四位上に昇叙したのが初見[3]。やがて累進して公卿に列し、天授4年/永和4年(1378年従二位権大納言に叙任されたというが[4]、さらに内大臣へ昇進したことを示唆する史料があり[5]、これが極官であろう。一説には、出家して行意と号したとされる

ここにある一説では出家というのが最近提示した日蓮弟子の玉野のことだと思う

しかしそれはうちと関係ない 




うちが中舘にいたの

なんであたしんちの先祖のことを外野の一部が知っててあたしらの先祖にそれを

言わないか 騙してたのか



戸籍流した張本人たちが警察みたいな連中だから、あたしんちはその当時からこいつ

らに殺され 生きてることを他の人間にかぶせてられてたんだ。



あたしんちのものが浪岡に流出したからこそ 浪岡のとこで吉左衛門名乗ってた

んだぞ??

そもそも顕成の偽名だから




そんなんだから、家康も当然 天海もうちの事わかってんのよ

数日前書いたとおり 天海はうちと対立してた

意味が繋がっただろ??

うちの本尊はもとは古代天台宗にあったもの 古代山王神道宮司だ うちが!

それに対抗して天海が東京に山王まつりを作ったの





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享禄2年(1529)、浪岡北畠氏七代具永が北畠氏の菩提寺として長勝寺二代秋澗梵菊 を迎え青森浪岡に創立した。しかし、天正6年(1578)、大浦為信により浪岡北畠氏は 滅亡し、それに伴い京徳寺も衰退した。 その後、津軽信牧が弘前に ...