驚いたな 工藤お前んとこの出目 伊東に悪用されてきてるぞ

工藤はあたしんちサイド

伊東はあたしからリンチされるサイド

工藤 自分らの感性であたしんちサイドだってわかるだろ??

伊東らはあたしが壮絶にリンチされる自覚あるはずだ

しからば 伊東 あたしが持ってる借用書の一部に伊東の名が書いてある

さらにかつて熊野神社は伊東が入ってたという水墨画を入手してるあたしは

当然 それは伊東に調べてもらって出してもらったヤツなんだろう

あたしは過去調べから 熊野で顕家の架空第三子と松代が殺されてるということ

なのでは??

と思ったり そこの熊野に伊東がかんでる時点で ロクな事がない

と考えている。

相馬の人殺しどもが松代と子供が自害したと言ってる記録がもし 熊野伊東から

出ていたとなれば 伊東 なぶり殺しの刑だぞ

あたし その話は熊野神社にいた伊東から出てるとしか考えられないんだ。

もう 考えてるだけで伊東が熊野にいたと水墨画にあった

その場所で松代が死んだと言ってる気がしてならない。



工藤は伊東を継いだってウィキに書いてあっから

あたしんちと同じで、過去 お前らは伊東を継いだんだ

お前らのものは伊東のものだって言われてたと思うんだけど どーだ??

伊東と人殺し相馬はマブだよ 



そんで伊東は伊豆って今 見てわかったわ

伊東も古い これであたしんちの加害者また特定

伊東は鎌倉幕府の間者

伊豆方面の田代も鎌倉幕府患者 その田代が田代宮司だの田代駒焼きだのの系統

その田代の娘と川嶋舟がデキ婚し離婚

そのキチガイ田代の娘の子育ての悪評っぷりはとても有名らしい

それが田代間者の末裔 ロクでもないのばっかり

そしたら仲良し伊東がロクでもないのもわかる

ましてや 過去あたしんちから金をタカリ せびりとる そこに伊東がいる

これで伊東一族も滅べと思ってるわけだが

伊東は鎌倉幕府で伊豆だと 工藤

お前んとこ まったく鎌倉幕府に恩恵どころか 関係ねーだろ??

たぶんあたしと一緒で仇に近いと思うんだけどさ

関係ねーんだ 工藤は伊東と。

伊東は頼朝傘下で 平家皆殺ししたサイドだから。

工藤んとこ 平家だろ??

仇なのになんで伊東に養子に入ったみたくされてきてんの お前ら

平安時代末期から鎌倉時代初期[編集]

工藤氏の一族である工藤祐隆(すけたか、工藤家次(いえつぐ)とも)は、伊豆国の大見・宇佐見・伊東からなる久須見荘を所領としていた。
出家し法名を寂心、久須美入道(久須見氏)と号した祐隆は、早世した嫡男・祐家(すけいえ)の代わりに、後妻の連れ子であった継娘が産んだ子を嫡子とし伊東荘を与えて祐継(すけつぐ)と名乗らせた。一方、早世した祐家の子・祐親を次男として河津荘を譲り、河津氏を名乗らせた。
曽我物語』によれば、祐親は祐継を「異姓他人の継娘の子」と呼び、真名本『曽我物語』では祐継は祐隆が継娘に産ませた子で、祐親の叔父であるとしている。
伊東荘を継いだ祐継は病により43歳で死去し、9歳の嫡男・金石(のちの工藤祐経)の後見を義弟・河津祐親に託した。祐親は河津荘から伊東荘に移住し、河津荘を嫡男・祐泰に譲って河津祐泰と名乗らせる。祐親の次男・祐清は伊東を名乗っている。金石は元服すると工藤祐経と名乗り、約束通り祐親の娘・万劫御前を妻とした。その後祐経は14歳で祐親に伴われて上洛し、平家の家人として平重盛に仕える。
祐経を都へ追い払った祐親は所領を独占し、伊東荘を押領された事に気付いた祐経は都で訴訟を繰り返すが、祐親の根回しにより失敗に終わる。祐親は娘・万劫を取り戻して相模国土肥遠平へ嫁がせる。所領の他に妻をも奪われた祐経は憤り、祐親親子の殺害を計画、安元2年(1176年)10月、祐経が送った刺客により、伊豆の狩り場で河津祐泰が射殺され、のちの曾我兄弟の仇討ちの原因となる。

源頼朝と伊東祐親[編集]

源頼朝平治元年(1159年)の平治の乱で父・義朝が敗死した事により、14歳で伊豆へ流罪となり、伊東祐親は在地豪族としてその監視の任にあたっていた。祐親が大番役として上洛している間に、頼朝と祐親の三女八重姫が通じ、千鶴という男子をもうける。安元元年(1175年)9月、千鶴が3歳になった時に祐親が帰郷して事を知り激怒、平家への聞こえを恐れ、千鶴を川底へ投げ捨てて殺害し、さらに頼朝を討とうとした所を、次男の祐清が頼朝に知らせて北条時政の邸に逃がした。のちに頼朝は時政の長女政子と結ばれ、北条氏が頼朝の後見として頼朝の挙兵に加わる事になる[1]
この事件の5年後、治承4年(1180年)8月、頼朝は打倒平氏の兵を挙げて坂東を制圧し、平家方として敵対した祐親は頼朝方に捕らえられ、一端は娘婿である三浦義澄の奔走によって助命されるが、それを由とせず自害した。次男・祐清は頼朝から命の恩人として賞を与えられるが、これを拒んで平家方として西国へ下り、篠原の戦いで討ち死にした。工藤祐経は頼朝に仕えて側近として重用され、祐親父子亡き後の伊東荘を安堵される。祐経は頼朝の挙兵から13年後に河津祐泰の遺児・曾我兄弟によって父の仇として討たれた。

鎌倉時代から室町時代[編集]

祐経の子・祐時は伊東を称し、その後子孫は全国に広まった。主だったものでは、祐時の子・祐光の子孫が日向国へ下向してのちの日向伊東氏となり、地頭大名として現地で勢力を誇った。
伊東祐親の子孫の一派(伊東祐清の子の祐光(すけみつ)の子孫)が尾張国岩倉に移り住んだとされ、その子孫が織田信長豊臣秀吉秀頼に仕え、江戸時代には備中国で大名となった。この系統を備中伊東氏(または尾張伊東氏)と呼称する。後述の備中伊東氏の項目及び河津氏の当該項目参照。
日向伊東氏は、南北朝時代までは守護職である島津氏の被官として土持氏と共に国衆(くにしゅう)または国方(くにかた)と呼ばれた[2]。しかし、その島津家が奥州家総州家に分かれ、その両家が庶流を巻き込んで内紛に及んだ頃より、徐々にその支配から離れ始める。

伊東氏(いとうし、いとううじ)は、平安時代末期から鎌倉時代にかけて伊豆国田方郡伊東荘(現静岡県伊東市)を本貫地としていた豪族藤原南家藤原為憲の流れを汲む工藤氏の一支族。通字は「」(すけ)。
一族である工藤祐経の子孫が日向国へ下向して戦国大名の日向伊東氏・飫肥藩藩主となり、伊東祐親の子孫が尾張国岩倉に移り住んで備中国岡田藩主となる。

ここに藤原南家とあるがこれ違うぞ 血が違う こいつら藤原北家

なんで藤原南家が宮崎日向に行く??  宮崎日向は百済だろ百済

郡山の多田野神社調べに行ったとき あの界隈で伊豆神社ってあって

ムカムカきたんだよな

つまり多田野と伊豆は同期ぐらい この両方鎌倉幕府

多田野はうちを支配したみたいな状態で子供らがちゃがちゃにした多田野だ
伊豆=伊東となれば なるほどわかった

多田野と伊東 黒木 相馬 こいつら 同じグループだぞ

伊東氏は基本的に北朝方(及び観応の擾乱時における尊氏派)の立場を守り、幕府に忠節を尽くした。息子の祐重(すけしげ)も将軍・尊氏から偏諱を受けて伊東氏祐(うじすけ)と改名した。


あとこの前 秋田の姫神山に伊豆神社あってブチギレしてるだろ あたし

伊豆という単語もムカつくんだ 今 わかった伊東=伊豆って事が

血がこいつは違うってすんげー嫌がってる