あと熊野那智に九曜紋が入ってた 伊東関係してるからじゃないか
工藤これが伊東の本当の姿よ この大嘘つき伊東も徹底的な何百年の呪いかかる時
きたな
伊東も伊達間者だったというわけだ コイツらは工藤とは名乗らなかった
これであたしんちの借用書にある伊東 伊達のタカリ工作員だと定義できる
んじゃ青森の工藤はいったい誰らなのか これは桓武平氏だろとあたしは言ってる
これ
南北朝時代には岩手郡の工藤光家も建武元年(1334年)に建武政権に反旗を翻し、南部信長に討たれている。そうした中で、工藤貞行の朝廷方としての活躍は目覚ましく、その勲功の賞として山辺郡・田舎郡・鼻和郡・外浜などの所領を得て、これらは女加伊寺(南部信政妻)を通じて後に南部氏に伝領された。[2]
こいつら 伊豆だからこいつらも伊東だ 詐称はなはだしい
この工藤と安東がその後北畠になりだしたんだぞ
あげく 俺は顕家の子だと言い張り何百年もの間 あたしんちに迷惑かけた
浪岡のルーツは工藤と安東だ
工藤を伊東と置き換え 安東を安倍と置き換えたら どーなるか
まるっきり仇だな
工藤貞行
生涯[編集]
元亨2年(1322年)の安東氏の乱において、御内人の紛争を得宗家が処理できずに鎌倉からの鎮撫軍が派遣され、正中2年(1325年)には鎌倉御家人の工藤貞祐が派遣、現地の工藤貞行も鎌倉方として活動したといわれる。
正慶2年(1333年)鎌倉幕府が滅亡したのち、北奥羽各地の鎌倉北条方残党が建武親政に抵抗するが、工藤貞行は、陸奥守北畠顕家に従い、正慶2年~建武元年(1333~34年)の大光寺合戦において、朝廷方の合戦奉行として津軽の北条方鎮圧に功があり、その功によって建武2年(1335年)工藤貞祐の所領であった鼻和郡目谷郷、外ヶ浜野尻郷が恩賞として与えられたが、貞行には嫡男がなかったので万が一を考え、生前に嫡女であった加伊寺御前に所領や職を譲り渡すと譲状を与えたが、加伊寿御前と夫八戸根城城主南部信政の間に男子が出生した際に、改めて配分するとの内容であり、加伊寿御前は根城南部氏7代信光を生んだ。 この貞行の遺領が南部氏の津軽進出の拠点となった。
そしたら工藤と安東とが混ざり合って 北畠の子孫と言い張ってた浪岡に血が
繋がる。血統泥棒背乗り
米良氏
米良氏(紀伊国の豪族)[編集]
紀伊国熊野地方の豪族。那智山の神職・社僧・御師を務め、歴代幕府や諸大名の御用を務めた。2系統有り米良湛知の後裔は目良氏に改姓し新熊野(いまくまの)神社(現・京都市東山区今熊野椥ノ森町)別当職を代々務めた。
米良氏(肥後国の豪族)[編集]
肥後国球磨郡米良山[1](明治以後宮崎県に属する)の豪族。後に菊池氏末裔を名乗る。また一族の中には、日向国の須木や椎葉などに移り住み伊東氏に臣従していた庶家もある。江戸幕府より無高の交代寄合に任じられ4年に1度の参勤交代の義務を課された。明治維新の際に17代当主則忠が薩摩藩に呼応して討幕に参加したことが評価されて菊池への改姓が許されて後に18代当主武臣が男爵に叙せられた。