ほら盛岡 島津一族が関係してる それに会津藩が関与してるもの
戊辰戦争の戦後処理として、途中から新政府側に参加した久保田藩、津軽藩が論功行賞を受ける一方で、転封を命じられたのは、盛岡藩と会津藩、庄内藩、それに近江国朝日山5万石で移された山形藩などがあり、減封を命じられたのは、明治元年12月7日、仙台藩は62万石から28万石に、米沢藩は4万石を削減され14万7000石などがあった。
廃藩[編集]
念願の盛岡復帰を果たした南部家とその家臣達であったが、その条件として課せられた70万両もの大金は明らかに献納不能なものであった。
明治 3年(1870年)4月、70万両の献納は撤回されたものの、他藩への影響などを考慮して藩知事の辞任は許可されずにいた。しかし藩の再三の嘆願を受けた新政府により明治 3年7月10日、盛岡藩を廃して盛岡県が設置された。
藩邸および江戸での菩提寺[編集]
宗藩盛岡藩の江戸藩邸は、外桜田に上屋敷、麻布南部坂に下屋敷があった。後に鉄砲洲に中屋敷を設けるが品川大崎村に移転。また、江戸蔵屋敷は芝田町に、京都藩邸は東岡崎村に、大坂藩邸は北浜過書町におかれた。
江戸における菩提寺は芝切通しにあった五山派の勝林山金地院であった。
江戸における菩提寺は芝切通しにあった五山派の勝林山金地院であった。