ほら盛岡 島津一族が関係してる それに会津藩が関与してるもの


なお、遠野南部家は藩の大評定で強硬に新政府側につくことを主張し、八戸藩は藩主南部信順薩摩藩島津重豪からの養子であり、ともに秋田戦争に参加していない。

11月 3日 三戸県の内3万石をもって、会津松平氏の家名存続を目的とした斗南藩が立藩。
12月 4日 盛岡城兵部省の管轄になったため、県庁を広小路の元南部邸に置く

戊辰戦争の戦後処理として、途中から新政府側に参加した久保田藩津軽藩が論功行賞を受ける一方で、転封を命じられたのは、盛岡藩会津藩庄内藩、それに近江国朝日山5万石で移された山形藩などがあり、減封を命じられたのは、明治元年12月7日、仙台藩は62万石から28万石に、米沢藩は4万石を削減され14万7000石などがあった。

廃藩[編集]

念願の盛岡復帰を果たした南部家とその家臣達であったが、その条件として課せられた70万両もの大金は明らかに献納不能なものであった。
また凶作で税収が見込めない中、前藩主・南部利剛の娘の郁子が華頂宮博経親王に嫁ぐことになり多額の出費を余儀なくされるなど、藩財政は完全に破綻していた。
藩を取り仕切っていた大参事の東政図は、この状況を切り抜けるには南部利恭の藩知事辞任と廃藩置県を実行する他にないと考え新政府に嘆願していた。
明治 3年(1870年)4月、70万両の献納は撤回されたものの、他藩への影響などを考慮して藩知事の辞任は許可されずにいた。しかし藩の再三の嘆願を受けた新政府により明治 3年7月10日、盛岡藩を廃して盛岡県が設置された。

藩邸および江戸での菩提寺[編集]

宗藩盛岡藩江戸藩邸は、外桜田上屋敷、麻布南部坂に下屋敷があった。後に鉄砲洲に中屋敷を設けるが品川大崎村に移転。また、江戸蔵屋敷は芝田町に、京都藩邸は東岡崎村に、大坂藩邸は北浜過書町におかれた。
江戸における菩提寺は芝切通しにあった五山派の勝林山金地院であった。
また、江戸藩邸元禄16年(1703年)の元禄大地震では1度すべて全壊している。

元禄・宝暦・天明天保の飢饉は被害が甚大で盛岡藩の四大飢饉といわれ、凶作・飢饉の続発で藩財政を圧迫し、重税とそれに反対する一揆が繰り返されてきた。