この流れで整理していくけど、三好氏ってそもそも南朝サイドだったんだよ。
ところが、北朝サイドの細川にガタガタにされてるわけだ。
ほんで、この高山右近も三好氏つぶしに、一躍かってるということな。
だとしたら、三好氏の仇がまた見えた。
だいたいにおいて、三好氏の計らいで宇陀郡の城に居れたわけでしょ??
なんで三好氏 つぶしてんのや?? 三好に恨みでもあったんか??という話。
見てみろ 三好氏 南朝として静かに金もかけてなく ひっそりとしてたから。
それは一部には、まつりあげる連中がいなかった。売名に利用しようとする人が
いなかったとすれば幸いだ。
しかし、どこもかしこも 南朝というだけで金はなく かっぺ扱いをされる現代。
どこまで厚かましいのや??
どこまで見ないフリして生きてんのや??
だぞ??
へたくそな政治やって、農民からカツアゲした金で豪華絢爛建物ばっか作って海外にいい顔ふりまいて、移民推進して、どんどん日本人惨めにしたの 北朝だぜ??
どこまで日本人の生活圏侵略し続けんのや??
公平性もまったくなし。
かと言って、三好氏をひっぱり出すのが 売名タカリに集まられてしまう事は
ほかならない。
バチカンでは まだまだ死体の山できないと この現実が受け止められないかな??
もって帰れ。
バチカンで張りやがれ!
生い立ち[編集]
高山氏は摂津国三島郡高山庄(現在の大阪府豊能郡豊能町高山)出身の国人領主である。出自は秩父氏の一派の高山党の庶流とも甲賀五十三家の一つともいわれる。父の友照が当主のころには当時畿内で大きな勢力を振るった三好長慶に仕え、三好氏の重臣・松永久秀にしたがって大和国宇陀郡の沢城(現在の奈良県宇陀市榛原)を居城とした。
そうした中、右近は天文21年(1552年)に友照の嫡男として生まれた。後世キリシタンとして有名となる右近であるが、早くも永禄7年(1564年)に12歳でキリスト教の洗礼を受けている。それは父が奈良で琵琶法師だったイエズス会修道士・ロレンソ了斎の話を聞いて感銘を受け、自らが洗礼を受けると同時に、居城沢城に戻って家族と家臣を洗礼に導いたためであった。右近はジュストの洗礼名を得た(父の洗礼名はダリヨ、母の洗礼名はマリア)。