高山右近を「福者」に認定…ローマ法王庁読売新聞19時4分


この流れで整理していくけど、三好氏ってそもそも南朝サイドだったんだよ。
ところが、北朝サイドの細川にガタガタにされてるわけだ。

ほんで、この高山右近も三好氏つぶしに、一躍かってるということな。

だとしたら、三好氏の仇がまた見えた。

だいたいにおいて、三好氏の計らいで宇陀郡の城に居れたわけでしょ??

なんで三好氏 つぶしてんのや??  三好に恨みでもあったんか??という話。

見てみろ 三好氏 南朝として静かに金もかけてなく ひっそりとしてたから。

それは一部には、まつりあげる連中がいなかった。売名に利用しようとする人が
いなかったとすれば幸いだ。

しかし、どこもかしこも 南朝というだけで金はなく かっぺ扱いをされる現代。

武力行使と人身売買で金を手にした百済朝廷の関係者が日本の金をつかんで生活してきたこの事実を。隠蔽する工作ばっかりする人間が公務員たちだなんて、公務員リストラかけるべきだね。

どこまで厚かましいのや??

どこまで見ないフリして生きてんのや??  

日本には正統天皇南朝と大昔から大衆に受け入れられた事実は、いろんなケースからだ。

その天皇派閥 ぶっ殺しまくって財を奪って潰しまくったの みーんな北朝サイド
だぞ??

へたくそな政治やって、農民からカツアゲした金で豪華絢爛建物ばっか作って海外にいい顔ふりまいて、移民推進して、どんどん日本人惨めにしたの 北朝だぜ??

どこまで日本人の生活圏侵略し続けんのや??

公平性もまったくなし。

かと言って、三好氏をひっぱり出すのが 売名タカリに集まられてしまう事は
不本意ではある。しかし、この方の名誉を挽回してやれるのも、南朝天皇
ほかならない。

バチカンでは まだまだ死体の山できないと この現実が受け止められないかな??

奪った尊厳 返せよ バチカンで。法王はあのキチガイ看板 ちゃんとはがして
もって帰れ。
田舎にあちこちはりまくったキリシタンキチガイ看板だよ。

バチカンで張りやがれ!

高山 右近(たかやま うこん)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将大名。代表的なキリシタン大名として知られる。
父は摂津国人高山友照、母は洗礼名マリア。同じく摂津国人の中川清秀は従兄弟とされる。

生い立ち[編集]

高山氏摂津国三島郡高山庄(現在の大阪府豊能郡豊能町高山)出身の国人領主である。出自は秩父氏の一派の高山党の庶流とも甲賀五十三家の一つともいわれる。父の友照が当主のころには当時畿内で大きな勢力を振るった三好長慶に仕え、三好氏重臣松永久秀にしたがって大和国宇陀郡沢城(現在の奈良県宇陀市榛原)を居城とした。
そうした中、右近は天文21年(1552年)に友照の嫡男として生まれた。後世キリシタンとして有名となる右近であるが、早くも永禄7年(1564年)に12歳でキリスト教洗礼を受けている。それは父が奈良で琵琶法師だったイエズス会修道士・ロレンソ了斎の話を聞いて感銘を受け、自らが洗礼を受けると同時に、居城沢城に戻って家族と家臣を洗礼に導いたためであった。右近はジュストの洗礼名を得た(父の洗礼名はダリヨ、母の洗礼名はマリア)。
しかし、三好氏は当主・長慶が永禄7年に没すると内紛などから急速に衰退し、高山氏の本来の所領がある摂津においても豪族の池田氏伊丹氏などが独自の力を強めつつあった。
永禄11年(1568年)に織田信長の強力な軍事力の庇護の下、足利義昭が15代将軍となると状況は一変。義昭は摂津の土着領主の一つである入江氏を滅ぼすと、直臣である和田惟政高槻城に置き、彼と伊丹親興池田勝正を加えた3人を摂津守護に任命した(摂津三守護)。高山父子はこの和田惟政に仕えることとなった。