そうでなければ、百済朝廷の使いで 全国の信仰をキリスト教にしようとしたって事。



あと、可能性として書くけど百済朝廷はイエズス会を利用し恐れてもいたというフシもある。

というのは、当時の資料がどんくらい残ってるかなんだけども、南朝勢力はそれぞれの立場で全国各地にちらばっている。

当時も今と同じく 神道と寺が朝廷(宮内庁)の傘下だとしたら??
一部神社と一部の寺は 天皇家と懇ろ関係にある。


そうなったら、まずあたしはそこには行かないね。信仰なんてするわけがない。

だって朝廷の金つくりに協力する機関だぜ?? 天皇家というものを作り出して、しかも百済勢の血統でどんどん継いで、継ぎの行事をして、威厳を作ってきた連中だ。

もし、百済寺百済神道ならば、高山がそれらを壊すことは百済を潰すのと一緒なわけ。

それの保険にキリスト教布教を使った可能性は??

百済を壊すために織田が後ろでそれを使った可能性・・・もありと推測。





しかし、それは壊されたものが百済にかかわるものの場合。

そうでなければ、百済朝廷の使いで 全国の信仰をキリスト教にしようとしたって事。

これ 当時の天皇たちは もちろん百済血統だよ。

誰だっけ??

国外追放[編集]

秀吉からも信任のあつかった右近は、天正13年(1585年)に播磨国明石郡に新たに領地を6万石与えられ、船上城を居城とした。しかし、まもなくバテレン追放令が秀吉によって施行される。キリシタン大名には苦しい状況となるが、右近は信仰を守ることと引き換えに領地と財産をすべて捨てることを選び、世間を驚かせた。その後しばらくは小西行長に庇護されて小豆島肥後国などに隠れ住むが、天正16年(1588年)に加賀金沢城主の前田利家に招かれて同地に赴き、そこで1万5,000石の扶持を受けて暮らした。
天正18年(1590年)の小田原征伐にも建前上は追放処分の身のままでありながら前田軍に属して従軍している。金沢城修築の際には、右近の先進的な畿内の築城法の知識が大きく役に立ったともいわれる。また利家の嫡男・前田利長にも引き続き庇護を受け、政治・軍事など諸事にわたって相談役になったと思われる。慶長14年(1609年)には、利長の隠居城・富山城の炎上により、越中射水郡関野(現富山県高岡市)に築かれた新城(高岡城)の縄張を担当したといわれる。
慶長19年(1614年)、加賀で暮らしていた右近は、徳川家康によるキリシタン国外追放令を受けて、人々の引きとめる中、加賀を退去した。長崎から家族と共に追放された内藤如安らと共にマニラに送られる船に乗り、マニラに12月に到着した。イエズス会報告や宣教師の報告で有名となっていた右近はマニラでスペイン総督フアン・デ・シルバらから大歓迎を受けた。しかし、船旅の疲れや慣れない気候のため老齢の右近はすぐに病を得て、翌年の1月8日(1615年2月4日)に息を引き取った。享年64。
葬儀は総督の指示によってマニラ全市をあげてイントラムロスの中にあった聖アンナ教会で盛大に行われた。右近の死後家族は日本への帰国を許され、現在、石川県羽咋郡志賀町代田福井県福井市大分県大分市に直系子孫の3つの「高山家」がある。