河内源氏の祖[編集]

源為義
源 為義(みなもと の ためよし、-爲義)は、平安時代末期の武将。祖父が源義家、父は源義親。叔父の源義忠暗殺後に河内源氏の棟梁と称す。なお父は源義家で、源義親と義忠は兄にあたるという説もある。通称は六条判官、陸奥四郎。
当初は白河法皇・鳥羽上皇に伺候するが度重なる不祥事で信任を失い、検非違使を辞任する。その後、摂関家の藤原忠実・頼長父子に接近することで勢力の回復を図り、従五位下左衛門大尉となって検非違使への復帰を果たすが、八男の源為朝の乱行により解官となる。保元の乱において崇徳上皇方の主力として戦うが敗北し、後白河天皇方についた長男の源義朝の手で処刑された。

京での躍進[編集]
長男の義平に東国を任せて都へ戻った義朝は、久安3年(1147年)に正室で熱田大宮司の娘・由良御前との間に嫡男(3男)の頼朝をもうける。院近臣である妻の実家の後ろ楯を得て、鳥羽院や藤原忠通にも接近し、仁平3年(1153年)、31歳で従五位下・下野守に任じられ、翌年には右馬助を兼ねた。河内源氏の受領就任は源義親以来50年ぶりの事であり、義朝は検非違使に過ぎない父・為義の立場を超越する事になる。この急激な抜擢は、寺社勢力の鎮圧や院領支配のため、東国武士団を率いる義朝の武力を必要とする鳥羽院との結びつきによるものと見られ、それは摂関家を背景とする為義らとの対立を意味していた。
河内源氏の源義朝の三男として生まれ、父・義朝が平治の乱で敗れると伊豆国へ流される。伊豆で以仁王の令旨を受けると、北条時政、北条義時などの坂東武士らと平氏打倒の兵を挙げ、鎌倉を本拠として関東を制圧する。弟たちを代官として源義仲や平氏を倒し、戦功のあった末弟・源義経を追放の後、諸国に守護と地頭を配して力を強め、奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼして全国を平定した。建久3年(1192年)に征夷大将軍に任じられた。