ガダルカナル島の戦い←いったい、何をやってんのアンタ達は。



仮にヒロヒトではなく、うちを崇拝してる軍隊がいたら
旭日旗は使わないだろうな

大日本帝国憲法制定前はその位置づけが未だ充分ではない点もあったが、憲法制定後は軍事大権については憲法内閣から独立し、直接天皇統帥権に属するものとされた。したがって、陸海軍(日本軍)の最高指揮官は大元帥たる天皇ただ一人であり、帝国陸軍については陸軍大臣大臣)・参謀総長総長)・教育総監総監)が天皇を除く最高位にあり(直隷)、これらは陸軍三長官と呼称された。なお、三長官には陸軍大将ないし陸軍中将が任命されるため、役職自体は帝国陸軍の最高位といえど階級自体は必ずしも最高位の者がなるものではなく、特に歴代の陸軍大臣教育総監には少なくない陸軍中将が補職されている。





そもそも百済だからコイツは↑


このように海軍は積極的な侵攻作戦によって、連合国の反攻拠点であるオーストラリアアメリカの分断を考えたが、日本陸軍は、あくまで日中戦争支那事変)解決を重視しており、東南アジアの占領地・資源地帯は現状維持とし、それ以上の太平洋方面は海軍の作戦担当地域であるという認識に立っていたため、戦線拡大には否定的であった。


大本営は連合軍の太平洋方面の反攻開始は1943年以降と想定していたため、ガダルカナル島において戦闘能力のある人員は、設営隊と護衛の海軍陸戦隊(第18警備隊基幹)を合わせても600名足らずであった。アメリカ軍上陸直前の8月5日には滑走路の第1期工事が完了している。なおこれに先立つ1942年昭和17年)5月3日のMO作戦時に、近接するツラギ島には水上機基地が設けていた。ガダルカナル島の防備について、井上成美中将(第四艦隊司令官)は「第八根拠地隊(南東方面の地上部隊)に兵器をやりすぎた」と言うほど、楽観的であった[6]

しかし、日本軍の予測は外れ、アメリカ軍は早くも7月2日には対日反攻作戦となるウォッチタワー作戦を発令した。米国陸軍マッカーサー大将は、ウォッチタワー作戦の目標をフィリピンにより近いラバウルとすることを主張したが、海軍作戦部長アーネスト・キング大将は太平洋艦隊の空母戦力が充実していないことを理由に反対したため、当時飛行場建設が行われていたガダルカナル島を攻略することで双方一応の決着をみた。そして7月4日以降ガダルカナル島への偵察・爆撃が強化され上陸作戦への準備が進められた。

13日、捕虜となったある日本兵が米海兵隊に対して「日本軍には投降する意志がある」と証言し、また海兵隊の偵察隊もマタニカウ川西岸に「白旗」が掲げられていると報告したため、(実際には日の丸が折り重なって赤丸の部分が見えなくなっていただけだった)第1海兵師団のD-2(情報担当幕僚)のフランク・ゲデッジ中佐率いる24名の偵察隊が現地に向かった。ところが実際には日本軍の攻撃を受け、伝令2名と川に飛び込んで逃げた1名のみが生還した。「白旗」を囮に攻撃を加えるという日本軍に多くの海兵隊員は激怒し、彼らの多くが日本兵は捕虜にせず、その場で殺害することを心に誓ったという。[要出典]

この戦闘による川口支隊の戦死者・行方不明者は約700名

で、一木支隊と比べれば損耗率は低かったが、激戦となっ

たのは国生大隊と田村大隊の2個大隊だけであり、国生少

佐、水野少佐を含め中隊長クラスの中堅将校が戦死した。

また、再起を画してアウステン山からマタニカウ川西岸に

かけて負傷者を含めた5,000名余りが駐屯することにな

り、兵站線の細い日本軍は、以後食料・弾薬の補給不足が

深刻化し、以後ガダルカナル島(ガ島)はさながら「

」の様相を呈することになる。

第二次総攻撃[編集]

1942年9月17日、陸軍参謀総長杉山元陸軍大将は、大元帥である昭和天皇ガダルカナル島の戦いについて以下のように上奏している。
  • 川口支隊の攻撃不成功の要因はジャングルを利用した奇襲に重点を置きすぎ、連絡不十分なまま戦力を統合運用しなかったためであること
  • 連合軍の防御組織、とりわけ物的威力が予想以上であり、同島では今後まったくの力押しによる戦闘が求められること
  • この戦いを受けて第17軍に、関東軍支那派遣軍などから20個単位の戦車、砲兵戦力を転用・編入して戦機である10月中にガダルカナル飛行場を奪回するべきこと
  • ガダルカナル島の戦いにおいては、陸海軍戦力を統合発揮する必要があること
11月12日にガダルカナルより大本営陸軍部作戦課長の服部卓四郎大佐が帰京し次のように第二次総攻撃の失敗について、東條英機内閣総理大臣陸軍大臣に報告している[34]
  • 敵は完全に制空権を掌握し、熾烈巧妙な火力準備により裸の我が軍を迎え撃った。
  • 敵は地上攻撃と空中攻撃を併用し、我が軍の航空支援は皆無だった。
  • 我が軍の大隊長級の能力薄弱。
  • 兵の士気は麻痺しており、さらに顧慮すべき衛生は劣悪。高い発熱、下痢栄養失調により第2師団の戦力は4分の1に低下。戦傷兵の後方担送には1人につき4から8人が必要な状況にある。
  • 現地の火砲は十五榴12門、十加2門、野砲4門、山砲8門、高射砲12門の計48門で、弾薬不十分。
  • 糧食は非常に不足し、揚陸物資も搬送手段無く、末端には届いていない。
  • 司令官は健康。「やる」と言っているが第一線を把握していない。
  • 敵は白昼堂々と船団輸送しているが、我が軍は潜水艦でコソコソ揚陸するも10隻で僅かに2日分の糧食を輸送できるに過ぎない(この時期に潜水艦による輸送は始まっていないため、駆逐艦の誤りと推測される)。
日本海軍連合艦隊日本陸軍第17軍の総攻撃支援のために近藤信竹中将指揮下の第二艦隊(第三戦隊:戦艦金剛榛名、第二航空戦隊:空母隼鷹飛鷹)および南雲忠一中将指揮下の第三艦隊(第一航空戦隊:空母瑞鶴翔鶴瑞鳳等)を派遣する。
10月26日、これによって発生した南太平洋海戦で日本側は搭乗員の多数を失ったが、空母1隻沈没、同1隻中破の戦果を挙げ一時的にアメリカ太平洋艦隊が展開する空母戦力が無くなることとなった。

山本五十六連合艦隊長官は「海軍の大戦果に呼応し、このさい一挙に敵を撃滅されたし」と陸軍に連絡したが、陸軍は予備兵力なしとして断ったという[36]日本海軍では下士官兵はおろか将校までが陸軍を批判していたのが目撃されている[36]

 ともかくこの報告を受け名古屋第38師団約1万名の輸送が決定した。

12月6日には閣議において、参謀本部作戦部長の田中新一中将が支援に必要な16万5000トンの艦船をガダルカナルに送り込むよう訴えたが、その半分の増援も認めなかったため、東條首相ら政務側に対し「馬鹿野郎」と怒鳴りつけ事実上更迭された。その理由は、元々東條はこの方面の作戦には反対であったこと、過去に投入した船団もことごとく全滅状態となったことであった。また参謀本部や海軍の要求を通すと南方からの資源輸送・南方への物資輸送が滞り、戦時経済そのものに悪影響を与えるためでもあった。
12月31日の御前会議において「継続しての戦闘が不可能」としてガダルカナル島からの撤退が決定された。この決定からさらに1ヶ月を経た1943年2月1日から7日にかけて、撤退作戦が行われた。各部隊のほとんどは予定通りに撤退地点まで到着することが出来たが、身動きの出来なくなった傷病兵を自決させ、あるいは「処分」することが大規模に行われていたという。

ガダルカナル島に上陸した総兵力は31,404名、うち撤退できたものは10,652名、それ以前に負傷・後送された者740名、死者・行方不明者は約2万名強であり、このうち直接の戦闘での戦死者は約5,000名、残り約15,000名は餓死と戦病死だったと推定されている。一方、米軍の損害は、戦死1,598名、戦傷4,709名であった[55]

ガダルカナル島最後の撤退作戦に参加した海軍輸送部隊指揮官の言によると、撤退するのが難しい傷病兵の多くは捕虜になることを防ぐため、手榴弾などで自決するか、戦友達の手(手榴弾・銃・銃剣など)によって葬られた[58]。日本軍撤退作戦終了後、ガダルカナル島ソロモン諸島におけるアメリカ軍の新たな兵站基地として使用され、また、日本軍の残兵掃討を行い部隊の練度を上げることが行われたと言われる。戦後刊行されたグラフ雑誌『ライフ』には、米軍の捕虜となった日本の傷病兵などが、戦車の前に一列に並べられ、キャタピラでひき殺されている様子が掲載されたという[59]


日本[編集]

ガダルカナル島の戦いは日本の継戦能力の限界を超えた状況となっており、11月24日にはある将校が「そこら中でからっぽの飯盒を手にしたまま兵隊が死んで腐ってがわいている」旨を大本営に報告したが、撤退は未だ決まらなかった。1ヵ月後の12月31日になって日本軍はようやく撤退に向けて動き始めたがこの間にも多くの将兵が餓死していった(これはガダルカナル以降補給の途絶えた各戦場で見られた現象で、ある生存者はジャングルを「緑の砂漠」と表現した)。ほとんどの部隊では、ふらふらと何とか歩ける兵士はすべて食糧の搬送に当たり、陣地を「守る」のは、立つこともできなくなった傷病兵という状態に陥っていた。そういう中で、やっと手に入れた食糧を戦友のもとに届けようと最後の力を振り絞り、背中に米を担いだまま絶命する兵士も現れれば、食糧搬送の兵を襲って米を強奪する兵士も現れる状況になった。また、戦いも末期になると孤島に封じられ、食糧の欠乏が深刻になると軍紀の荒廃は極まり、飢えた兵士の中からカニバリズムも発生したと言われ、書籍[61]では、ガダルカナルからの帰還兵の話として、日本兵狩りについて触れられている。こうした軍紀の乱れは「遊兵」と呼ばれるどの部隊にも属さない兵を生み出し、日本軍の組織的戦闘能力の減耗を加速させた。