ほらまた繋がった アキヒトの血筋はあたしんちを大昔から殺してる


まーた伏見だよ。つまりこの時期からは濃厚に天台宗北朝の朝廷子孫はべったりし

拝みごとやってたんだ。




ちなみに喜多方訪問2回

あたしは由緒ある南朝の子だ。たぶん感覚でわかっただろう。

アキヒトらの系統にはなく あたしにはあるもの。

それを感じることが出来る人は過去 南朝についた人たちだと思う。

だから顕家についたんだろ??  今感じるその感性は大昔と変わってないはずだ。

顕家が河内源氏を味方と思ってた理由は河内源氏とうちらが通じるものあったからだ

だし、その中身のひとつに熊野なんだろうと思う。

もう うちにあった熊野権現は見つけた。やっぱり直感でこれか??と思ったとおりで

熊野にその時代の見本があって、ほぼ作りが一緒。

あれが頼義らも見た熊野だ。そんでうちのが当時の南朝の戦 国取りのアタマを

守る守護にもらった物熊野権現 あとはうちにある山王大権現。

国のトップと等しく 朝廷なんつーのはユダヤと一緒で人に戦争させて勝ったほうと

負けたほうの利益取り合いするだけの拝んでるだけ貴族。



そしたらここに出てくるアキヒトの系統 伏見宮とは北朝ボンクラ公家の流れで

生き残ってる連中だ。そして喜多方 わかったと思うが、稲荷はキツネという

憑きものでいわば悪霊。それをあの寺の一角に置いた とんでもない事してる。

あれがダメだと言ってる あたしは。

アノ手は実は伏見稲荷という組織で伏見宮系統の神道宗教なんだよ。

封じ込めてあればいいけど、あそこにあったキツネ像に悪霊入ってる。

陣取ってる。そしてキチガイじみた鳥居。まるで悪霊が「おいでおいで」してるよ

うだ。

あの寺 なんつったっけ 熱塩のとこだ。

それから昨日行って確認したけど熊野大神宮とかいう場所はあそこ ダメだ。

気持ち悪い。

それだけでなく、小さなホコラがいくつもあって全部にキツネ入ってた。

熊野大神宮というのもダメ。今写真確認できないけど熊野大神宮って書いてあった

気がしたな。熊野神社とされてた山のいっかく。

あれは個人の裏山だなそして。

とても神々しい光は感じられず、借り物を置いてる感じだった あの山。

だったらまだ地蔵のほうがマシなくらい。




北白川宮能久親王(きたしらかわのみや よしひさ しんのう、弘化4年2月16日1847年4月1日) - 明治28年(1895年10月28日は、江戸時代末期(幕末)から明治時代の日本皇族陸軍軍人。幼名は満宮(みつのみや)。最後の輪王寺宮(りんのうじのみや)として知られる。
伏見宮邦家親王の第9王子。生母は堀内信子。幕末に活躍した山階宮晃親王久邇宮朝彦親王の弟で、仁孝天皇猶子にもなっているため、孝明天皇の義弟、明治天皇の義理の叔父に当たる。

輪王寺宮[編集]

寛永20年(1643年)、天海が没した後、弟子の毘沙門堂門跡・公海が2世貫主として入山する。その後を継いで3世貫主となったのは、後水尾天皇第3皇子の守澄法親王である。法親王承応3年(1654年)、寛永寺貫主となり、日光山主を兼ね、翌明暦元年(1655年)には天台座主を兼ねることとなった。
以後、幕末の15世公現入道親王北白川宮能久親王)に至るまで、皇子または天皇の猶子が寛永寺貫主を務めた。貫主は「輪王寺宮」と尊称され、水戸・尾張紀州徳川御三家と並ぶ格式と絶大な宗教的権威をもっていた。歴代輪王寺宮は、一部例外もあるが、原則として天台座主を兼務し、東叡山・日光山・比叡山の3山を管掌することから「三山管領宮」とも呼ばれた。東国皇族を常駐させることで、西国皇室を戴いて倒幕勢力が決起した際には、関東では輪王寺宮を「天皇」として擁立し、気学における四神相応土地相とし、徳川家を一方的な「朝敵」とさせない為の安全装置だったという説もある(「奥羽越列藩同盟」、「北白川宮能久親王(東武皇帝)」参照)。