いつだったか 天神の歌はここらが舞台じゃないかと書いた事あるけど、かごめかごめも謎解きする。

かごめかごめ 籠の中の鳥はいついつ出やる 夜明けの晩に鶴と亀がすべった

後ろの正面だあれ



あたしは今 これが直感できてるんだけど。

あたしの考え。

囲え 囲え 籠の中の鳥はいついつ出てくるかな?? というのは外野の様子

外野が犯人探ししてる状態 政情が不安定になったため 集団が口走る

夜明け(暁)の基盤(政情 環境)に

鶴(天皇)と亀(守護大名)がすべった

後ろの正面だあれ 犯人の刺客はそこに立ってる それは誰かな??

なんで天海が関連なのか。


天海がこれをやってたというならば、あたしも天海に同じ事仕掛けてやるわ。

これ 庶民が口にした隠語だよ。

やたらと会津出身を持ち上げる口実だったんだな 天海英雄説って。






  • 「鶴と亀」とは、日光東照宮御宝塔(御墓所)の真前に(側近くに)置かれている「鶴(飛ぶ=天)」と「亀(泳ぐ=海)」のことであり、徳川家康の側近つまり天海が「統治する(陰で操る)」という意味である。
  • 「鶴と亀が滑った」であり、長寿の象徴の2つが滑るということで、罪人の命運が尽きること(=処刑されること)を表している。



直感だ こいつ 仇 家康の側近ってこれが大嘘だったら日本史覆るよ。

家康たちが大金貢いだのはうち

うちでその時期なら中舘で神事やってたと思う。ここに出てくる福島って

福島県の福島で 福島屋旅館の福島だろ。

勘どおり こいつ 会津から一向宗なだれ込ませ うちを焼き討ちさせた線濃厚。

あと浅草などの山王祭 これはうちが山王さんとして訪問客がかなりいたことを

妬みパクリで東京に天海が設けたものと推測。



天海(てんかい、天文5年(1536年)? - 寛永20年10月2日1643年11月13日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての天台宗の僧。南光坊天海、智楽院とも呼ばれる。大僧正諡号慈眼大師 じげんだいし徳川家康の側近として、江戸幕府初期の朝廷政策・宗教政策に深く関与した。

紫衣事件などで罪を受けた者の特赦を願い出ることもしばしばであり、大久保忠隣福島正則徳川忠長などの赦免を願い出ている。これは輪王寺宮が特赦を願い出る慣例のもととなったという[3]

神田神社神田祭浅草寺三社祭日枝神社山王祭は、江戸の三大祭とされるが、それらの祭りは、天海により、江戸城の鬼門と裏鬼門を浄める意味づけもされていたとされる[1]




天海が将門を利用した理由

江戸城を将門に守らせる発想から来てるのは直感

将門を自分らの守護神みたく考えてるこのクソ坊主が天台宗などと語るのは詐欺

すべてにおいて泥棒人殺し背乗り嘘つき相馬藩と通じるものあり

会津と相馬が行き来し、相馬の罪人金なし改易された組を使って山王信仰の元を

断ちにかかり東京に山王祭りとつくり、うちの戸籍かっぱらい盗賊人殺しから

受け取ってたうちの古文を悪用 系図を悪用。うちの戸籍を村上源氏に垂れ流し

した可能性もありつつ、相馬の人殺しに北畠第三子成りすましも影でさせていた。

天台宗僧侶語った単なる賊の組頭状態。

と考えて かなり合致する事がある。将門とこだわったのは相馬のクソどもを

将門の支流と位置づけ拡散させていた。

これ 九曜紋の変わりバージョンじゃんか↓



日光山輪王寺←確かこの名前 秋葉神社の墓地が初期はこの寺院だったと見た

気がする。日光山から浄土真宗に移行しどーたらこーたらって書いてあったから

あたしはあたしんちの墓地は昔 天台宗が関与してんじゃねーか!と激怒した

記憶がフラッシュバック。これ天海の仕業だとすれば上の説明は合致する。

天海は会津浄土真宗つまり一向宗使ってうちを監視しうちの中舘を焼き討ちし

うちのものをとことん侵食させ子供らを洗脳させた。当然天海と相馬は組んでた

計算。天海が将門を利用してたのは相馬が馬キチガイで将門子孫と語ってたから

ら。





天海は、江戸を鎮護するため、陰陽道以外の方法も利用し、主要な街道と「の」の字型の堀とが交差点であり、城門と見張所がある要所に、平将門を祀った神社や塚を設置したとされる[1]。将門の首塚は奥州道に通じる大手門、将門の胴を祀る神田神社は上州道に通じる神田橋門、将門の手を祀る鳥越神社は奥州道に通じる浅草橋門、将門の足を祀る津久土八幡神社中山道に通じる牛込門、将門の鎧を祀る鐙神社は甲州道に通じる四谷門、将門の兜を祀る兜神社は東海道に通じる虎ノ門に置かれたとされる[1]。天海は、将門の地霊を、江戸の町と街道との出入口に祀ることで、街道から邪気が入り込むのを防ぐよう狙ったとされる[1]







見つけた 天海が死んでから弟子が経由で次からは後水尾天皇の子供が寺主で座主。

こいつもだな 人殺しは。うちで東京のデカイ門いったいの土地を買占めしたと

言ってるその時期はいつだ???




輪王寺宮[編集]

寛永20年(1643年)、天海が没した後、弟子の毘沙門堂門跡・公海が2世貫主として入山する。その後を継いで3世貫主となったのは、後水尾天皇第3皇子の守澄法親王である。法親王承応3年(1654年)、寛永寺貫主となり、日光山主を兼ね、翌明暦元年(1655年)には天台座主を兼ねることとなった。
以後、幕末の15世公現入道親王北白川宮能久親王)に至るまで、皇子または天皇の猶子が寛永寺貫主を務めた。貫主は「輪王寺宮」と尊称され、水戸・尾張紀州徳川御三家と並ぶ格式と絶大な宗教的権威をもっていた。歴代輪王寺宮は、一部例外もあるが、原則として天台座主を兼務し、東叡山・日光山・比叡山の3山を管掌することから「三山管領宮」とも呼ばれた