アヘン戦争


阿片戦争(アヘンせんそう、: First Opium War, First Anglo-Chinese War)は、イギリスとの間で1840年から2年間にわたって行われた戦争である。名前の通り、アヘンの密輸が原因となった戦争である。アロー戦争を第二次とみなして第一次アヘン戦争とも。

戦争に至った経緯[編集]

19世紀後半、帝国主義の列強はアフリカアジア植民地の拡大を競っており[2]、中国、朝鮮、日本の東アジア諸国は、ヨーロッパ列強、ロシア、アメリカ合衆国から開国を迫られるようになった[3]

アヘン貿易[編集]

当時のイギリスは、陶磁器を大量に清から輸入していた。一方、イギリスからへ輸出されるものは時計望遠鏡のような富裕層向けの物品はあったものの、大量に輸出可能な製品が存在しなかったうえ[4]、イギリスの大幅な輸入超過[5]であった。イギリスは産業革命による資本蓄積やアメリカ独立戦争の戦費確保のため、の国外流出を抑制する政策をとった。そのためイギリスは植民地インドで栽培したアヘンを清に密輸出する事で超過分を相殺し、三角貿易を整えることとなった。
中国の代末期からアヘン吸引の習慣が広まり、代の1796年嘉慶元年)にアヘン輸入禁止となる。以降19世紀に入ってからも何度となく禁止令が発せられたが、アヘンの密輸入は止まず、国内産アヘンの取り締まりも効果がなかったので、清国内にアヘン吸引の悪弊が広まっていき、健康を害する者が多くなり、風紀も退廃していった。また、人口が18世紀以降急増したことに伴い、民度が低下し、自暴自棄の下層民が増えたこともそれを助長させた。[6]アヘンの代金は銀で決済したことから、アヘンの輸入量増加により貿易収支が逆転[7]、清国内の銀保有量が激減し後述のとおり銀の高騰を招いた。


※なんでここまで出来るんだろうね
普通にみて、普通の国交ではないでしょ

※薬物規制は民族をまもるものであって、時代遅れでも異常発言でもない。

※そして、中国では古代から薬物研究はしてきた人がいる。
その先端をいく人の国に、薬とみなされない物を大量に輸出
するなんて、失礼極まりない。


この事態に至って、清では官僚の許乃済から『許太常奏議』といわれる「弛禁論」が出た。概要は「アヘンを取り締まる事は無理だから輸入を認めて関税を徴収したほうが良い」というものである。この論はほとんどの人間から反対を受け一蹴された。その後、アヘンを吸引した者は死刑に処すべきだと言う意見が出て、道光帝1838年林則徐欽差大臣(特命大臣のこと)に任命し広東に派遣、アヘン密輸の取り締まりに当たらせた。
林則徐はアヘンを扱う商人からの贈賄にも応じず、非常に厳しいアヘン密輸に対する取り締まりを行った。1839年道光十九年)には、アヘン商人たちに「今後、一切アヘンを清国国内に持ち込まない。」という旨の誓約書の提出を要求し、「持ち込んだら死刑」と通告した。さらにイギリス商人が持っていたアヘンを没収、夷館も閉鎖した。同年6月6日には没収したアヘンをまとめて処分し、この時に処分したアヘンの総量は1,400トンを超えた。その後も誓約書を出さないアヘン商人たちを港から退去させた。

※立派な保守派だ。

1839年3月に広東に着任した林則徐による一連の阿片取り締まりがはじまると、エリオットはイギリス商人の所持する阿片の引き渡しの要求には応じたが、誓約書の提出は拒否し、5月24日には広東在住の全英国人を連れてマカオに退去した[9]。急速な事態の進展に東インド艦隊も事態を掴んでおらず、軍艦を派遣してこなかったため、エリオットの元には武力がなかった。これを絶好のチャンスと見た林則徐は九竜半島でのイギリス船員による現地民殺害を口実に8月15日にマカオを武力封鎖して市内の食料を断ち、さらに井戸に毒を撒いてイギリス人を毒殺しようと企んだ[10]
これによりエリオットたちは8月26日にマカオも放棄して船上へ避難することになった。しかしここでようやく東インド艦隊のフリゲート艦(「ボレージ」「ヒヤシンス」)が2隻だけ到着した(エリオットと清国の揉め事を察知したわけではなく、パーマストン子爵の方針にしたがってたまたま来ただけであり、しかも6等艦という英海軍の序列では最下等の軍艦であった)。エリオットはこの2隻を使って早速に反撃に打って出た[11]

1840年8月までに軍艦16隻、輸送船27隻、東インド会社所有の武装汽船4隻、陸軍兵士4,000人が中国に到着した[14]。英国艦隊は林則徐が大量の兵力を集めていた広州ではなく、兵力が手薄な北方の沿岸地域を占領しながら北上し、大沽砲台を陥落させて首都北京に近い天津沖へ入った[15]


1842年8月29日、両国は南京条約に調印し、阿片戦争(第一次阿片戦争)は終結した。
阿片戦争以前、清国は広東広州)、福建厦門)、浙江寧波)に海関を置き、外国との海上貿易の拠点として管理貿易(公行制度)を実施していた。


阿片戦争は清側の敗戦であったが、これについて深刻な衝撃を受けた人々は限られていた。北京から遠く離れた広東が主戦場であったことや、中華が夷狄(いてき:異民族)に敗れることはまま歴史上に見られたことがその原因である。そもそも、清という国自体が、漢民族から見れば夷狄の満州族が支配する帝国である。 広東システムに基づく管理貿易は廃止させられたものの、清は、依然として華夷秩序は捨てておらず、イギリスをその後も「英夷」と呼び続けた。
しかし、一部の人々は、イギリスがそれまでの中国の歴史上に度々登場した夷狄とは異なる存在であることを見抜いていた。たとえば林則徐のブレーンであった魏源は、林則徐が収集していたイギリスやアメリカ合衆国の情報を委託され、それを元に海国図志中国語版を著した。「



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※これもビビる因果関係