中国での医学

中国での医学

500年頃に薬学者であった陶弘景により編纂された『唐本草』には医薬品としてのアヘンの記述がある。それ以前に、シルクロードを通じて持ち込まれた医薬品、底野迦(てりあか)にはアヘンが含まれていたとの指摘や、三国時代医師である華佗の用いた麻酔薬、麻沸散にアヘンが含まれていたとの指摘がある。当時の中国において、アヘンはレクリエーション使用が行われることはなく、朝に至るまではアヘン禍に陥ることは無かった。


陶 弘景(とう こうけい、孝建3年(456年) - 大同2年(536年))は、中国六朝時代医学者科学者であり、道教茅山派の開祖。通明。隠居後は名を捨て華陽隠居と名乗り、晩年には華陽真逸と称した。
眉目秀麗にして博学多才で琴棋書画を嗜み、医薬卜占暦算経学地理学博物学文芸に精通した。山林に隠棲しフィールドワークを中心に本草学を研究し今日の漢方医学の骨子を築いた。また、の名手としても知られ、後世の書家に影響を与えた。


丹陽郡秣陵(現在の江蘇省南京市)の人で、南朝士大夫の出身。祖父は王府参軍、父は県令を務めた。幼少より極めて聡明でたちまち書法を得、万巻の書を読破した。10歳のときに葛洪の『神仙伝』に感化され道教に傾倒し、15歳にして『尋山志』を著したという。20歳の頃、南斉高帝に招聘され左衛殿中将軍を任じられると諸王の侍講(教育係)となり武帝のときまで仕えた。30歳の頃、陸修静の弟子である孫游岳に師事して道術を学び、36歳にて職を辞し永明10年(492年)、茅山(南京付近の山・当時は句曲山といった)に弟子ととも隠遁した。『南史』には陶弘景が致仕したとき皇帝の肝いりで盛大な送別会が催されたことが伝えられている。
永元元年(499年)に三層の楼閣を建て、弟子の指導をするほか、天文・暦算・医薬・地理・博物など多様な研究に打ち込んだ。また仏教に深く傾倒している。王朝が交替すると武帝は陶弘景の才知を頼り、元号の選定をはじめ吉凶や軍事などの重大な国政に彼の意見を取り入れた。このため武帝と頻繁に書簡を交わしたので「山中宰相」と人々に呼ばれるようになる。年を負う毎に名声が高まり王侯・貴族らの多くの名士が門弟となった。『文選』の編者として知られる昭明太子も教えを受けたひとりである。
多岐にわたる著述を著しその数44冊に上った。
享年81(『南史』では享年85)。貞白先生

医薬[編集]

陶弘景は前漢の頃に著された中国最古のバイブル的な薬学書『神農本草経』を整理し、500年頃に『本草経集注』[1]を著した。この中で薬物の数を730種類と従来の2倍とした。また薬物の性質などをもとに新たな分類法を考案した。この分類法はいまなお使われている。唐代(659年)に蘇敬らが勅命により『新修本草』が刊行したが、『本草経集注』の内容を網羅的に継承し増補した内容であった。

王羲之鍾繇に師法し淡雅な書風だった。陶弘景が書したとされる「瘞鶴銘」の碑文は後世に評価が高くその革新的な書法に啓発された書家は数多い。とりわけ北宋黄庭堅は大きな影響を受け、独特のリズムを持つ革新的な書法を完成させた。また梁武帝と書簡の中で書論を交わしているが、この書論は唐代になって張彦遠の『法書要録』に収められ王羲之の書を最高位とする後世の評価を決定づけることになった。