中国の道教と、開花時代の唐、それをパクった当時の百済移民豪族朝廷


道教とは、「道の教え」である。広義には、「従うべき聖人の教え」という意味で、この語(道教)は使われる。この場合儒教仏教を指すこともある。

漢書』芸文志・方技略・「神僊」には10冊の書名が書かれているが、いずれも現代には伝わっていない。

(う、紀元前2070年頃)は中国古代の伝説的なで、夏朝創始者。名は、文命(ぶんめい)、大禹夏禹戎禹ともいい、姓は(じ)、夏王朝創始後、氏を夏后とした。
禹は人徳を持ち、人々に尊敬される人物であった。また、卓越した政治能力を持っていたが、それでいて自らを誇ることはなかったという。

禹の治水事業[編集]

の時代に、禹は治水事業に失敗した父の後を継ぎ、に推挙される形で、黄河の治水にあたった。『列子』楊朱第七によれば、このとき仕事に打ち込みすぎ、子供も育てず、家庭も顧みなかったので、身体が半身不随になり、手足はひび・あかぎれだらけになったという。しかしこの伝説は、どうも元来存在した「禹は偏枯なり」という描写を後世に合理的に解釈した結果うまれた物語のようである。『荘子』盗跖篇巻第二十九には「尭は不慈、舜は不孝、禹は偏枯」とあり『荀子』巻第三非相篇第五には「禹は跳び、湯は偏し」とある。白川静は『山海経』にみえる魚に「偏枯」という表現が使われていることから、禹は当初は魚の姿をした神格だったという仮説を立てた。実際「禹」という文字は本来蜥蜴の姿を描いた象形文字であり、禹の起源は黄河に棲む水神だったといわれている。

漢書』以外にも様々な法技行われていた。呼吸法のひとつ「吐故納新」、五臓を意識して行う瞑想の「化色五倉の術」、の歩みを真似て様々な効用を求めた「禹歩」などが伝わる[7]

霊宝経の起源は禹の時代に遡り、邪鬼を排し昇仙を成すという神人から賜った「霊宝五符」とその呪術にある。これは江南の葛氏道と呼ばれる一族が伝え、経典として整備されたという。その内容は仏教特に大乗仏教の影響を受け、輪廻転生元始天尊衆生を救済するという思想を持つ。また儀礼を詳しく定めている点も特徴である[12]

歴史的に形成された道教

教団組織の面での形成は、神祭儀礼の完成や神学教理より遅れた。同時期に整って行った仏教教団の影響も大きい。教義面に関しての一応の成立は南北朝初期の寇謙之を遡らないが、宗教としての教団組織と儀礼と神学教理の三要素が完成したといえるのがいつなのかは難しい問題であり、から五代にかけて、漠然と代を中心にした時期とみられる。

※唐時代を中心に道教開花

曹操は蜀を滅ぼした後、張魯ら一族を厚遇し、信者数万戸は黄河渭水流域に移住させ、この地で五斗米道は大きく広がった[10]


三洞最上位の上清経を伝えた一派の開祖は、山東省任城の女性・魏華存である。彼女は2人の息子と戦乱を避けて江南に移住し、そこで天師道の祭酒(指導者)になったという。その後仙道を極めて仙女となり、紫虚元君・南岳夫人を名乗った。東晋の役人・許謐は霊媒の助けを借りて紫虚元君らを仙界から降臨させ、教示を書き残した。これが時代を得て上清経になったという[12]。これは、精神を研ぎ澄ます瞑想法の存思法などの修練を通して汚れた人間界を脱し、神仙界へ至ることを説く[12]。後に活躍した道士の陶弘景は、この上清経をとりわけ重視した[11]

桃源郷の主 陶弘景

唐の特に末期には、金丹が隆盛になった。財力豊富な皇帝たちは練丹にも手を出し、多くの道士を宮廷に招いた。しかしその結果、多くは中毒死に結びつき穆宗武宗宣宗が命を落とした。文人などにも流行し、儒者である韓愈も硫黄を服用し亡くなったという[14]。結局は成果を挙げられない金丹は、内丹の興隆もあって唐代を最後に廃れ始めた[14]
また、金丹が衰え内丹術が隆盛になったのもこの頃である。内丹とは瞑想などを通じて体内の気を練り神(しん、こころ)を通じて体の中に金丹を生み、不老長寿に至る方法論である。これも過去の金丹が莫大な出費を要するのに対し、基本的に身体のみを使う内丹は誰でも取り組める上、出版により手軽に広がった事もある[15]。内丹も当初は2系統があり、ひとつは「気」の修練を重視し肉体的な不老不死を目指す「命宗」と、もうひとつは「神性」の修練に重きを置く「性宗」であり、こちらはの思想に近い。この2つの系統ややがて性宗が優勢になり、道教は内面化・精神化の傾向を強めてゆく[15]

道教の一側面である咒術にも「雷法」という新しい概念が持ち込まれた。を天の意思を代行する雷帝(九天応声雷元普化天尊雷官)による悪しき者を罰する正義の力と考え、内丹で練った神気を外に向ければ強烈な力を使役できると考えられた[15]

この意味で日本において本来の道教が伝わっているとは言いがたい。唐王朝道教の開祖とされた老子の末裔を称しており、唐側より日本に対して道教の受け入れを求めた時に、日本側が(天照大神の子孫とされる)天皇を中心とする支配体制と相いれないものとして拒否したとも言われている[21]

※日本の朝廷が百済移民豪族だったため、唐で日本に問いかけるのは百済移民に問いかけるものと同じで、白江村の戦い前後から朝鮮と唐は いい関係になかった。
さらに、日本サイドでは断った 日本には神道があるからという返事をしてるのも百済豪族朝廷なので、百済移民は中国からのパクリはするもののオリジナルを主張したかった。その唐時代の日本朝廷は百済豪族であり、中国からは認められていなかった。そのくせに都建設時は道教をかなり利用している。

日本における道教[編集]

各地で発掘されている三角縁神獣鏡道教呪術文様から、4世紀には流入していたと見られている。6世紀には百済からの仏教に伴い「呪禁師」「遁甲方術」がもたらされ、斉明天皇から天武天皇の治世にかけては、その呪力に期待が寄せられて、支配者層における方術の修得や施設建設も見えている。それに伴う神仙思想も、支配者層において教養的知識レベルに留まらず実践に至るまでの浸透を見た。これらは民衆社会にも流布しており、『日本書紀』『風土記』『万葉集』に見える浦嶋子伝説、羽衣伝説等などの神仙伝説にその痕跡を遺している。


醮事章符[編集]

様々な神々を祀る寺院に庶民が参る風景は、道教をイメージする代表的風景である。この源流は、の上帝そして天に対する信仰、儒家の祖先信仰、民間の巫法、墨家上帝鬼神信仰などさまざまなものが考えられる。特に墨家が言う「鬼」とは、天と人の間にあって人間を監視し、天意(「義」‐道徳や倫理など)に背くと災いや事故を起こすと言う[8][9]。人々は「義」を守る生活とともに天や鬼を祀り、罰を避けようとした。道教では天と鬼の間に人の世界があり、各階層で善行や悪行によって上り下りがあると考えられた[9]

※これで平安京にまつわる鬼の出どこがわかったな。中国だ。だから古い仏像で中国系のものには鬼が彫刻の中に入ってる。


神仙思想[編集]

主に不老不死を得るための仙術の体得と、その手法の研究が流行した。やがてこれらの思想が民衆運動や政争に利用されたり、仙薬として水銀を扱い害をなすなどの弊害を産んだ。