南京市民の皆さん お待たせしました。また会津藩による殺戮案件であったものを発見しました。同じ県民としては耐えられない。
ここで同じ県民として、はっきり提示。
コイツらは会津県として独立させてください。
この方面の庄内藩兵を率いる石原多門から次のように語られている。
「当地へ出張以来会の将佐藤折之進等表裏の所業甚しく危険の場へは
必我庄兵を差向け、己は後へ廻りて分捕等を掠むる工夫を事とし
一向義を重んじ信を守るの志なき故、我士卒いづれも不平を抱き
元より越地出兵は会を援くる為なるに、会人の作業如斯にては
何ぞ尽力する栓あらんと云て、自然と勇戦の心なく
数十日空く日を送れるなりと云」
(甘糟備後継成遺文)
甘粕は庄内藩兵を指揮する石原より
「会津を助ける為に越後に出兵したきたのに
肝心の会津藩兵は激戦地に庄内藩兵を送り
自分達(会津藩兵)は安全な後方で
民衆からの略奪に狂奔しているので
庄内藩兵の士気が下がっている」と不満を述べられている。
ええええええええええええええええええええっ?( ; ゜Д゜)
明治政府との和平蹴って戦争ふっかけたのに
自分達は後方で味方の領地を荒らし回って戦わない?
これが会津武士道…(´д`|||)
会津兵は天皇の軍勢の戦闘員ばかりか
彼らの手に捕らえられた人夫たちまでも殺したといわれる。
この話の確証として、四日間も雪のなかに倒れていて
両足の機能を失った一人の人夫にあったことを、私はここに記しておきたい。
その人夫はもし会津兵につかまったならば
むごい死に目にあわされていただろうと私に語った。
そのほか、私は若松で世にも悲惨な光景を見た。
たくさんの死体が堀から引き上げられたが
彼らの両手は背中にうしろ手に縛られ
腹が深く切り裂かれていたのだ。
私は会津の徒党のでたらめな残酷物語をいろいろと耳にした。
長岡で、彼らは天皇側の病院にいる負傷兵や医師たちを皆殺しにした、と聞いた。
会津兵が越後に退却して行く途中、彼らは女たちを強姦し、家々に盗みに入り
反抗する者をみな殺害したのである。
これが会津武士道