というわけで、大昔から日本人は百済朝廷に売りに出されてるワケ。


はい そうすると、織田は寺のカルトを狩りまくり
秀吉はキリシタンの人身売買の歯止めをかけるために動いた

これ あたし流に簡単に説明すると

移民推進派がもたらした災難の処理

んじゃ移民推進派だったのは 中大兄皇子天智天皇百済移民豪族
そのきっかけは白江村の戦い

その時に百済移民を大量に入れたのが中大兄なんだよ。そしてコイツが日本書紀
古事記を書いた。そして、その二つは内容に特徴があって片方は旧約聖書に似ていて、片方は新約聖書に似ているんだ 内容が。ヒマある時 興味ある人は調べて
みるといい。あたしはそこまで暗記してるから。


その百済大量難民が日本に住み着いて漢族と合体していた。

これが奈良と平安の時期なのさ。


そんで宣教師が入ってきたのは鎌倉時代
南北朝騒動の後になるかな??

そして、難民入れまくってた朝廷は単なる百済豪族 百済盗賊という解釈は
できただろ??今の天皇家はその流れをくむ連中だ 覚えてて。

そして人身売買が活発になりだしたのは、織田・豊臣の頃ということは
戦国時代 つまり室町時代の後な。その室町時代百済武士と百済武士の共食いだと
さっき書いたよね。それが足利だったり北条だったりすんだけど。

そんで今度は、日本人を売りに出すという行為の横行取り締まり
これをしたのが織田でもあり豊臣でもあったということだな。

それを妨害されたのがおもしろくないのは、百済朝廷となる。

というわけで、大昔から日本人は百済朝廷に売りに出されてるワケ。

そしたら、なんで 南朝で助けてくれなかったんですか??と聞かれた場合
まず 北朝と和睦したと歴史に例え書かれてる部分があっても
命を狙われる派閥だったのは間違いないでしょ??

いかに北朝から反逆者と勘付かれずに、味方や支援を受けられるようにするか・・
これは源義仲源平合戦見ただけでもわかるでしょ。たくさん死んでるから。
ちなみに北畠の時も相当 武将をなくしてしまったわけだよ。
そのために、戦力がないから出たくても出れない
そう書けば、理解してもらえるだろうか??

そしたら、南朝北朝は和睦したっていうフレーズもさ。
人身売買の横行も含めて、そんな事が前提での和睦ではないでしょ。
その和睦時点では人身売買の件はなかったと思うし、坊主丸儲けも横行
してなかったのでは??

それが、兵を削がれ金や城を奪われ身内も謀られ めちゃくちゃにされて
逃れた南朝の本家ですよ。

じゃあ 南朝 ほかの地域にもいるよね??となれば、子孫としてどっかに血は
流れてても、天皇としての覇権はもっていないでしょう。覇権を持ってるという
ことは、ぶっちゃけ殺されるか洗脳されます。あっちの思うツボ。

隠れて生きる 目の前にいる人たちを助けてやるのが手 いっぱい・・・

これも理解されるでしょうか。

249 :名無しさん@1周年:2016/01/20(水) 22:44:57.39 ID:
>>247 
世界中でレイシズムアパルトヘイトの主犯 
教会自身が奴隷を使用していた 

キリシタン弾圧()の実態(時系列) 
1)それまで ”日本人奴隷を海外へ売るビジネス” は存在しなかった。 
2)1540年代にポルトガル人宣教師(諜報機関)が日本へ訪れたあと、急速に奴隷貿易が発達する。 
3)主に九州の ”キリシタン大名” が ”ポルトガル人宣教師” に奴隷を差し出し、代わりにフランキなどの南蛮(ポルトガル)武器を手に入れた。 
4)ポルトガル船に詰め込まれた日本人女性奴隷は主にアルゼンチンなどへ売られていった。 
5)九州征伐をした秀吉が、九州のキリシタン大名と伴天連との間の日本人婦女子奴隷貿易の実態を知って激怒し、1587年に伴天連追放令を出した。 
6)一連の所業に対する処罰の一環であった。 
7)その後もキリシタン大名がこそこそと奴隷貿易を続けていたため、江戸幕府ポルトガル人宣教師による奴隷貿易を完全に断つために、1639年(寛永16年)の南蛮(ポルトガル)船入港禁止し鎖国に入った。