島原藩
こちらは因果応報
キリスト教ってドラックに似てるんじゃないのかね??
あくまで貿易の範疇であって、宗教はいらないのに宗教を与えた。
しかも大名が。
熱烈キリシタンが支配者になったことによる不幸としか 言いようがない。
なんで商品の物流だけではダメなの??
なんで宗教持ち込むの??
ちなみに火あぶりがされたって事は、勝家は魔女狩りの事を知ってる。
因果応報っていうのはな。キリシタンが過去 自分らの都合で強盗や搾取
レイプする常套手段として「お前は魔女だー」って因縁つけた事から始まってる。
それ 勝家は知ってるんだよ。だから、同じやり方で応戦したんだ。
させるんだ。
ほんで、それを真似した勝家がとてつもない名誉剥奪されるんだろ??
ここにあたしは、不平等だろって言ってるんだ。
バチカンでさ・・・あたしらがこういう事を知らないと思ってんの??
中世なのかアタマ??
とっくに日本では知ってたんだよ。そういう残虐行為の裏で偽善語って
弱者に平等をって洗脳しまった工作活動だったんだって。
キリシタンが過去やった事を報復にやったんだろ 勝家が。
ほんで残虐だなんて言うのならば、自分らがしてきた事を直視しろって言うんだ。
やたらと偽善並べ立てて、難民が心配だったらバチカンで取り扱ったらいいだろ。
他人に不幸のたらいまわししてんじゃねーよ!
中東の不幸だって、植民地化に動いた連中がいただろうが。
ほんで あたしは消されたブログにも書いてる。
なんでその人たちの生活圏 ぶっ壊すのやって。難民になんの 当たり前だろって。
来てほしくないんならば、そこに生活しててもらったらいいだろって。
北と韓国も戦争になっても、難民はダメだ。
因果応報でまた死体の山ができる。
弾圧が強くなるっていうのは、カルト化しそうだから弾圧に偏ったんだろ。
今の朝鮮人在日にこの前まで帰れコールが続いたのと一緒。
まだまだ続くよ 美智子が民団の会長やったとしても。
日本人は自分たちの生まれる前に起きた事を勉強している。
そりゃ あたしの方針としては 北は北で移民せずとも食っていけるように
なるべく動いてもらわなきゃならんし、それは応援するよ。
それについての恩恵今まで受けてきてんだろうが。あんだけのたくさんの
ビルを建ててさ。
ムシがよすぎんだよ そりゃー 北のほうが遅れてればそっちを支援してやるさ。
怨念がとぐろ巻いてるって わかってるか??
あたしは、小さい頃からキチガイ看板を目にし、学校帰りは聖書まがいのものを
校門のとこで手渡され そんな小学校時代のトラウマがあってね。
耐えられない!
なんで??
ぜひ あれを貼りまくってほしい。
それがキリシタンがやってきた布教活動だ。
あとさ。どっかで勘違いしてる層がいると思うから書いておくけど。
日本人は武器を持たずに 日々 戦ってるんだよ。
戦争反対とかのレベルでなくて、とっくの昔から戦争続きなんです。
言葉で発してるんだから、まだ日本人は平和なほう。
これが手や足のすぐ出る国や地域に行けば 間違いなく血が流れます。
そんだけ日本人は 体を大事にしてるというか 先人の無駄死にを学習してるって
事なんだ。
そんだけ思考は学習済み そこが、手が出ない足が出てこない 安全~って
思われてるとこなのかもしれない。確かに体は小さくてパワーもないけど
それこそ、そんな弱体をなぶり殺しにした連中は、弱者というものを
見誤ってるのではないだろうか・・・。
あたし 教えたの。経済戦争に持ち込むぞって。
持久戦だからな。第二次世界大戦よりも長く続くよ。
あたし的には持久力はないほうだけど、日本人は意外と持久力と精神はあってね。
それに日銀が耐えられるかって話なんだけどさ・・・。
あとは神のいかづち どんどん落ちるから それも同時進行してるという
このおそろしさ 忘れっぽい民族は 即効のエジキになる・・・。
あとな。因果応報 もうひとつ教えてやろうか??
神のなんたら・・・と書いてある看板 あれに書いてあることって
聖書の文句なんだろ??
その神のとこがアカツキと書いてあって、その布教拡大したら
キリシタンたちはどーすんだい?? 発狂して看板はずしたり 抵抗するだろ??
それな。日本人たちがそれをあえてやらないのは、あたしを当て馬にしないで
くれてんだ。むっちゃ優しいだろ??
もし それをやられたら 不快になるだろうにさ・・・。
よくも平気でやってるよな。しかも丸森が本部とか・・・。
霊山のふもと近くだろっつーの!
ふざけんな まったく。そこが全国に看板流してたとこだと知った時の
発狂ぶり すごいよ あたし・・・びっくりして。
なんで そんな近くにいんのや??
とりあえず、発狂してあの看板 はずす人は 今のとこ いないと思うが
それも日本人の優しさだ。貼った人たち 自ら撤去し
そして重政の後を継いだ勝家は父以上の苛酷な政治を敷き、キリシタンを厳しく取り締まった。勝家の残酷さを示すものとして、年貢を払えない者には蓑を着せて生きたまま火あぶりに処すという、いわゆる「蓑踊り」という処刑方法があったという。また、年貢を払えない者の子女を捕らえて処刑したり、幕府の歓心を得るために4万石の取立てを10万石と申告するなど、島原はまさに地獄そのものだったという。この苛酷な勝家の政治に遂に領民の怒りが爆発し、寛永14年(1637年)に天草四郎を総大将として有名な島原の乱が起こる。領民の怒りは凄まじく、松倉軍の中にも領民側に寝返る者が現われたため、松倉軍単独ではとても鎮圧できなかった。ここに至って江戸の幕府も事態を重く見て、板倉重昌を総大将とした鎮定軍を派遣するが、重昌は功にあせって戦死してしまう。代わって「知恵伊豆」で有名な老中・松平信綱が総大将となる。信綱は九州諸大名およそ12万を総動員して、原城を兵糧攻めにした。この中には戦国時代の古強者・立花宗茂らも加わっている。反乱軍も兵糧攻めにはかなわず、3ヵ月後に反乱は鎮圧。四郎をはじめとする反乱軍は皆殺しとされてしまった。その一方、領主の松倉勝家も苛酷な政治を敷いて領民に反乱を引き起こさせた責任を厳しく問われ、乱の鎮圧後に斬首刑に処された。勝家が大名の身分でありながら武士としての名誉の刑である切腹さえも許されず一介の罪人として斬首刑に処された点からも、幕府が勝家の罪をいかに重く見ていたかがうかがえる。