ノアの箱舟のアララト山説は・・・

まず あたしはポンペイの噴火の跡を知ってるのさ。

あたしは何年も前にテレビでやったポンペイの噴火の状況やテレビ解説を覚えていて

それをいつか書いた。一回目か二回目のブログの時だな。

そのブログはヤフーが勝手に消したおかけで、思い出して書き起こすようになり

いつだったか 思い出して書き起こした事あんだけども。

その上で、火山噴火の溶岩温度はものすごく高い。

放射性温度だけで黒こげ。あのいぶす煙に巻かれてるだけで燻される。

それが溶岩流れれば、溶けるわな。溶ける。

ポンペイの残った遺跡はほとんどが石像の柱や基礎。

ほんでポンペイの調査で出た遺体の痕跡っていうのは、後に再現されている。

遺体は石膏で。

んじゃなんで遺体を復元できたのか。

当時、高温度の溶岩は流れ、ポンペイの町はその火山灰が大量に降ってその火山灰

を避けるために建物へ逃げた人たちが、建物を埋め尽くすたくさんの高温度火山灰

によって、短時間で灰に生き埋めにされちゃったのさ。

それを隙間なく火山灰が降り積もってそれを固めていた。

それを発掘作業はじめたら、そこで埋もれた人たちのいたとこは窪みになってる。

そこに石膏を流して型をとってみたところ、生き埋めになった人たちの人型が

出来たって事。そんで、その人型とれたものを石膏で再現し、現地に置いたわけ。

それがポンペイ災害のリアル復元。災害へ対しての貴重なリアル資料として。

時期で西暦79年↓

bushoojapan.com/scandal/2014/09/30/31028 - キャッシュ
日本で言えば弥生時代に劇場や公衆浴場、下水道も今から約2000年前の西暦79年、 古代ローマでヴェスヴィオ火山が大噴火を起こし、当時1万人と推測されるポンペイの 都市が一晩で消滅した。

karapaia.livedoor.biz/archives/52192827.html - キャッシュ
2015年5月30日 - その一環として、亡くなった被災者たちの石膏像も修復された。発掘された当時、火山灰 の中は、遺体部分だけが腐ってなくなり空洞ができていた。 考古学者たちはここに石膏 を流し込み、逃げまどうポンペイ市民が死んだときの形を再現した。
イタリアの古代都市、ポンペイ ... - 失われた世界34の都市 - 「モントセラト」の首府プリマス


そしたら旧約聖書に出てくる大洪水 あとはバヒロニアの捕囚
ユダヤ人はバビロニアへの出稼ぎ仕事を聖書に書かなかったようだが
彼女への恨みは相当持っていて、恨みタラタラは聖書に書いたらしいが。

アララト山 標高5000mとなったのは、今になってはそうでも大昔はそんなに
標高あったのか??という疑問がひとつ。

もうひとつは、アララト山成層火山とされてるようなので、大昔からカウントすると、その火山が大洪水あった時から噴火してないとは、言い切れないのでは??
仮に噴火があれば、木造の船であれば跡形もないのでは??
という疑問もひとつ。

そこで前提に書いたポンペイ例で言うと、よほどの埋もれる空間に残骸が残っていて
溶岩が流れていない場合は、残ってる可能性もあり得るということ。

ただ、地図で見るとかなりの内陸。そうするとその奥行きまで押し流す水量・・・
かなりの量になる。当時の標高がどんだけあったのかもわからんし。
可能性は半分。