河内源氏 源義仲の子 源義高

源義仲 滋賀で討たれる
源義高 埼玉で討たれる

この記述自体が討ったと思ってるサイドで記録しているもので
実際に討ったと確認できていないのでは??

①うちの先祖は多田姓なんだと言い伝えられている
②うちは昔九州から来ていると言い伝えられている
③大正時代の記録を見ると美濃守と出てくること
☆よってうちは河内源氏
☆そこに北畠顕家の子供がうちに入っている
北畠顕家の父親 親房の娘が南朝天皇と婚姻している段階で
 うちは南朝天皇の一族

神皇正統記』(じんのうしょうとうき)は、南北朝時代に公卿の北畠親房が、幼帝後村上 天皇のために、吉野朝廷(いわゆる南朝)の正統性を述べた歴史 ... 神代から後村上 天皇の即位(後醍醐天皇崩御を「獲麟」に擬したという)までが、天皇の代毎に記され る。
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 - 後村上天皇の用語解説 - [生]嘉暦3(1328). 京都[没]正平23=応安1(1368).3.11. ... 元弘3=正慶2 (33) 年北畠顕家と陸奥に おもむき建武中興政府の東北鎮護にあたった。 本文は出典元の記述の一部を掲載し ています ...

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp > ... > 歴史 > 日本史 - キャッシュ
北畠顕家、護良親王後村上天皇この三人の関係を具体的に教えてください(^o^)! - 護良親王と後村上帝は異母兄弟。護良親王の妃に関しては、北畠親房の妹説と説の 二通り...
質問日:2013年4月2日
回答数:1件


源 満仲(みなもと の みつなか)は、平安時代中期の武将清和源氏六孫王経基の嫡男。多田源氏の祖で、多田 満仲(ただ の みつなか、ただ の まんじゅう)とも呼ばれる。満中とも記される。神号多田大権現

源満仲多田満仲)の五弟源満快を祖とする信濃国を本拠とした一族。満快の ... 河内 源氏の源為義の子の源義賢が甥の源義平に討たれ、信濃国木曾谷の豪族の中原兼遠 の元で育った義賢の子の源義仲木曾義仲)が信濃国木曽谷を領した頃から始まる。


源義高 (清水冠者)

源 義高(みなもと の よしたか)は、平安時代末期の河内源氏の流れを汲む信濃源氏武将清水冠者(志水冠者)と号す[1]木曾義高とも。源義仲の嫡男。母は中原兼遠の娘[2](実名)は文献によって異なる。「義高」は『吾妻鏡』の記述によるものであり、『尊卑分脈』では「義基」、『平家物語』では「義重」となっている。

経歴[編集]

寿永2年(1183年)、挙兵した父・義仲は以仁王の遺児・北陸宮を奉じて信濃国を中心に勢力を広げ、同じ源氏源頼朝とは独立した勢いを見せた。また頼朝と対立していた叔父の志田義広新宮行家を庇護した事により、3月には頼朝と義仲は武力衝突寸前となる。義仲が11歳の嫡子義高を人質として鎌倉へ差し出す事で、両者の和議が成立した。

義高は信濃の名族の子弟である海野幸氏望月重隆らを伴い、頼朝の長女・大姫の婿という名目で鎌倉へ下った(なお、義高と大姫は又従兄妹にあたる)。同年7月、義仲は平氏を破って入京する。しかし義仲はを治めることに失敗し、後白河法皇とも対立する。頼朝は都に源範頼源義経を代官とした義仲追討軍を派遣し、寿永3年(1184年)1月、義仲は宇治川の戦いで追討軍に敗れ、粟津の戦いで討たれた。

父・義仲が討たれたことにより、人質として鎌倉にいた義高の立場は悪化する。4月21日6月1日)、頼朝が義高を誅殺しようとしていることを知った大姫は、義高を密かに逃がそうとする。義高と同年の側近で、いつも双六の相手をしていた幸氏が義高に成り代わり、義高は女房姿に扮して大姫の侍女達に囲まれ屋敷を抜けだし、大姫が手配した馬に乗って鎌倉を脱出する。しかし夜になって事が露見し、激怒した頼朝は幸氏を捕らえ、堀親家ら軍兵を派遣して義高を討ち取るよう命じた。義高は4月26日6月6日)に武蔵国で追手に捕らえられ、入間河原で親家の郎党藤内光澄に討たれた。

こうして、義仲の家系は断絶した。享年12。

5月1日6月10日)に義高の残党が甲斐と信濃に隠れ、謀反を企てているとして信濃国に大規模な軍兵の派遣が行われた。


義高の死を知った大姫は嘆き悲しみ病床に伏してしまう。母の政子は義高を討ったために大姫が病になってしまったと怒り、義高を討った郎従の不始末のせいだと頼朝に強く迫り、6月27日8月5日)、光澄は晒し首にされた。

神奈川県鎌倉市常楽寺に義高の墓と伝わる塚(木曽塚)がある。
幸氏はその後も頼朝に仕えて鎌倉幕府御家人となっている。
清水丸館の存在については、『松本市史』(昭和48年発行)に載っている松本城普請の際の文書(降幡家文書)にみられる「清和源氏木曽義仲公没落之後、巴御前の清水丸御住所・・・」からもうかがい知ることが出来る。槻井泉神社(松本市清水)の辺りとも、地蔵清水(松本市役所)の辺りとも言われている。
地蔵清水 松本城東北角に碑がある。地中から地蔵尊が出たため、松本市役所周辺を地蔵清水といった。地蔵は、舟型の後背を持った地蔵で現在松本市蟻ヶ崎生安寺境内に安置されている。文永3年(1187年)の銘が刻まれ、松本盆地で一番古い石仏。清水冠者義高の霊を慰めるために鎌倉から贈られたものではないかといわれている。

伊豆石で造られていて、まったく同じ石仏が鎌倉にも一体ある。鎌倉亀ヶ谷切通しの手前の角に「岩船地蔵堂」がある。木造の地蔵が安置されているがさらに床下に石の地蔵があった。

やはり舟型の後背を持った地蔵で、頼朝の娘「大姫」の守り本尊とされていてる。「岩船地蔵堂」は平成13年2001年)に新しい堂に建て替えられ木造地蔵尊を前に石造地蔵尊をその奥に安置している。外から拝観できるのは、木造地蔵尊のみで石造地蔵尊を見ることはできない。