イヌ家畜化の起源は中国であることが判明 ←これについての説明を書く
犬の祖先とされる狼は群れで生態する。
犬は飼い主と棲家を選ぶが、狼はもっと目が肥えていて 信頼できる相手を選ぶ。
犬よりも狼のほうが警戒心が強い。
その能力を見抜き、ちゃんと一緒に生活出来た人間だけは認められる。
常にその信頼に応えられる人のみが犬に選ばれる。
つまり、狼信仰があった場所では昔 狼との付き合い方が上手だったということ。
そしたら、狼信仰がどう変化してきたかっていうのをあたしが推測で書いてみる。
まず、古代はあまりないたんぱく質源として食してたようだ。
犬が狩りを上手に出来る素質を活かして狩りが出来る人は、犬に狩りの補助をしてもらい他の動物を捕獲していたと、あたしは思う。
つまり、犬と共存がどう出来たか、それは個人個人の能力に応じた扱いを犬が受けたと思っている。
そして犬に狩りをさせる事ができると人間が進化した時、はじめて犬を狩りの共にしはじめ、それを出来る人材と犬がめぐり合えた時にのみ起きた、狩猟の奇跡なのではないかと、あたしは思っている。
そして、たいがいは食料として屠殺。それでも、その人間に応じては、命をいただきます、ありがとうという感謝を添えて、魂を弔ってやろうという儀式もあったのではないかと、あたしは思う。
なかには、祟りが怖いと感じて、お願いだから祟らないでくださいと拝んでいた人たちも、いたのかもしれないとあたしは思う。
中国の新石器時代の遺跡からは、犬の骨が大量に出土している。これは犬を食用として大量に飼育していたためである。黄河流域にも[1]長江流域にも犬食文化は存在した。古代中国で犬肉を食べていた事実は、「羊頭狗肉」「狡兎死して走狗烹らる」などの諺、前漢の高祖に仕えた武将樊噲がかつて犬の屠殺を業としていたことからもうかがえる。
んじゃ 犬を食べる習慣残ってる地域は、日本で正月には雑煮を食べるっていう風習があるのと一緒で、それに近い風習として定着してるんでは?? 昔は食ったと思うと懐かしいから食すみたいな感じで。
んじゃ、食すとこと食されないとこ 違いは、食文化が現代に近づくに連れ地域単位で変わってる。それを風習として残すか、残さないかっていう気持ちがあるのかもしれない。
意外と現代は犬は働く・仕事する・人間に忠実・健気だという行動をみんなが見ているために、犬を食べるのではなく、豚や鶏、牛などの肉を食しているのが近代化してる社会の軸みたいなもの。それで流通も確立化してるため、それが当たり前みたいに思ってるのは、慣れのせい。
んじゃ、犬 かわいそうってなった時、犬が好きな人は抵抗がものすごくある。
そしたらあたしは犬派だから、食してと言われて提供されたら拒むと思う。
そういう生活圏で生きてきてるから。
んでも、鶏愛好家 牛愛好家 豚愛好家にしたら、なんで屠殺して食してる??という光景になってるのかもしれない。
んじゃ屠殺という行為自体について書けば、それは覚悟のある立派な仕事だ。
そして、んじゃ犬を食すということに抵抗はあったか ないのか。
それはオオカミとの関わりがある民衆ほど、犬は食べなかったのではないかと
あたしは推測する。
犬を食す環境というのは、たぶん飢饉や干ばつ
作物不作となった時食べるものがなくて、
やむを得ず判断した可能性もあると思っている。
- 日本語のオオカミの語源は大神(おおかみ)とするように日本では古くから狼信仰が存在しており、『日本書紀』には狼のことを「かしこき神(貴神)にしてあらわざをこのむ」と記述されている。山の神として山岳信仰とも結びついており、近世において狼信仰の中心となった武蔵御嶽神社や秩父三峯神社の狛犬はオオカミである。
- 長野県佐久市猿久保では、 オオカミがお産する穴を発見したら、赤飯を重箱に詰め村人が巣穴の前に供えた。オオカミはお産を無事に終えると空になった重箱を村人の家まで返却したという民話がある[8]。
あと、霊山もオオカミ信仰あったはずだぞ。
これは あたしの系統だ。
先祖も狩り うちの先祖も愛犬家だった。
うちの先祖は北畠顕家のいた場所界隈を守っていた。今 埼玉秩父では狩りを勉強する女子が出てきた。生態系を守りたいという立派な志だ。そこに、屠殺というものが生じる。それをさばく行為がいかに覚悟のいる事か。発狂して殺害しまくるものとはまったく異質なものなので念頭に置いててほしい。
凶器というものは身近にたくさんある。それを扱う人の志次第で、世の中は変わる。