蟹さん三河
稲作は弥生時代より
4世紀から6世紀に豪族により古墳の築造
これ高品質が三河で作れたってことは職人の適正や質が良かったことと、環境が恵まれたということ
例えば唐代の商人がシルクの種を三河にあげました。
三河ではその種をどこに埋めるか考え 埋め 成長過程を観察し その成長過程から
次のステップを見出しました
それがさらに高品質になるものと、その時点で判断できた目も「能力」のひとつ。
あとは価値観上の問題
生産しているとこへの賞賛か
それともそれを持ち込みされて売りさばく街へ賞賛があるか
ちなみにシルク 唐文化のひとつ
それをこの土地にいる人が生かせる事ができただけ
それを生かせられない人ならば土地に根ざしての知名度も出なかった。
奈良や京都は物流の通過点で、それを扱う店や商売人がたくさんいて、そこをゴールとみなすか、出荷している大元をゴールとするかは 考え方の違い。
わかってきたかな??
406 :名無しさん@1周年:2016/03/07(月) 21:38:05.70 ID:
>>155
最上級のシルク「犬頭糸」は三河が生産地
次いで極上とされる「赤引糸」は遠江が生産地
シルクロードの起点は三遠地方
三河市
歴史[編集]
https://www.google.co.jp/maps/place/%E6%84%9B%E7%9F%A5%E7%9C%8C%E8%B1%8A%E5%B7%9D%E5%B8%82/@34.8303382,137.2865293,12z/data=!4m2!3m1!1s0x6004cbef8f4e3a19:0xc0c7086902a01c0
時期的には合ってる。これ調べていって唐人間が定着して文明伝えたならば、その記念に土地名を三河にしてる可能性もある。
国府[編集]
国府の遺構は豊川市白鳥町上郷中・下郷中で見つかっている(位置)。総社があることや「おとど(大臣)」の地名から推定され、1991年(平成3年)から1997年(平成9年)にかけて総社周辺の発掘調査が行われた結果、建物跡が見つかっている。加えて「国厨」の墨書土器が出土したことから、政庁と確認された。1999年(平成11年)3月には、豊川市八幡町で長さ100メートル以上、幅員22メートルの小石を敷き詰めて舗装した大道が発見されており、国府と国分寺をつなぐ道路遺構とみられている。
国府のとこに道路整備跡があるって事か
土建のほうだな
ほんでそこも八幡なのか
八幡信仰から来てるというか それ自体が本当のヤマト王権なんだよな つまり。
奈良の大和(倭)は魏ではないんだよ。
『古事記』には「三川」と表記され、7世紀の出土木簡にもみな「三川国」と記されている[1]。律令制-平城京までは「参河」と表記。長岡京以後は、「三河」と表記したことが、木簡から判明している。また、万葉集には三河は水河とも当て替えられている。