村上水軍←うちの系統なんだろうなぁ


問題は古い土地での文化財が出てこないとこだ。

ただ、民族性的にはうちの系統なはず

もしかしたら移動してるかもしれない。

土地を捨ててるかも。

百済大嫌いだもの。んでも墓とかあったら、離れないかもしんないけどなぁ・・・

そういうのがないのか??って聞いてんだ。

いや 村上氏の墓だか あったな

それだけか

住み着いてないのか ものを作らず 自然のみの恩恵を軸にしたのか

うちらの系統って文化財ほとんど作ってないんだよな 探しててもヒットしない。

そんだけ借金作らないように生活してたって事

都とか記されてるとこにある文化財は借金たくさん作って、建造してんのさ。

その借金の元手 すべてカツアゲ。

都の人 朝廷のエラい人っていう肩書きで どんだけカツアゲされてたんだろう。

文化財があんまないって事は借金を作らなかったという解釈もできる。



村上水軍(むらかみすいぐん)は、日本中世瀬戸内海[1]で活動した水軍海賊衆)である。その勢力拠点は芸予諸島を中心とした海域であり、後に大まかに能島村上家、来島村上家、因島村上家の三家へ分かれた。
彼らの多くは真言宗徒であり、京都などに数多く菩提寺が残されている。また、今も瀬戸内周辺地域には村上水軍の末裔が多く住む。主な活動は航行船の破壊、略奪、信書の開封破棄等を通じた同盟関係の分断である。20世紀まで瀬戸内海で見られた漂海民も、村上水軍の末裔ではないかといわれている[2]。代表的な表紋は「丸に上文字」や「折敷に縮み三文字」など。

起源[編集]

これら三つの村上家の起源ははっきりしないが、もともとは一つの家であったという。その起源として最も有力とされるのが、『尊卑分脈』に記された、河内源氏の庶流信濃村上氏を起源とする説である。平安時代に活躍した村上為国の弟・村上定国保元の乱後に淡路島を経由して塩飽諸島に居を構え、平治の乱後の永暦元年(1160)に越智大島[3]に居を移し、伊予村上氏の祖となったとされる。
越智大島を始め伊予各地には、源頼義が伊予守をしていた時期に甥の村上仲宗信濃村上氏の祖)に命じて多くの神社・仏閣を建立させたという伝承が残っており、もともと伊予は信濃村上氏と縁のある土地であったとされる。
また能島村上氏系図では、自らの出自を村上天皇の皇子具平親王の子源師房を祖とする村上源氏としている。因島村上氏にも同様の起源を主張する系図が残されている。また信濃村上氏に残る系図には、源頼信の次男源頼清村上天皇の皇子為平親王の子源憲定(村上憲定)の娘婿として村上姓を名乗ったとする、よく似た説が伝わっている。その他に、伊予越智氏の庶流との説もある。
この他、村上義弘は、愛媛県新居浜市沖の新居大島の生まれであると同島では伝えられており、水軍活動初期のものと思われる城跡や舟隠し跡などが残されている。