景行天皇に関するおかしな捏造


そーするとまず 成務天皇は実在してるのは確定なのがひとつ。

そしたらその親 父親が景行天皇で母親が新羅の八坂 しかしこの八坂は古代高句麗

の血で、その子が成務という解釈をするのがひとつ。

そしたら、このウィキ見てみよう。なんかおかしい事に気づくから。

まず、景行天皇の子として成務天皇という単語が最初のとこにないのはなぜ?? ※1

あれれ 成務天皇を皇太子にしているのに、なぜ成務天皇より、ヤマトタケルばかり

を全面に出してる?? ※2

古事記がデラタメなのは大衆も理解できるから。この辻褄合わない話を

何百年信用させようとしてきたのか・・・※3

このやり方を見れば、勝手に子供に含んだりして過去帖を捏造し権威を横取り

したのも薄々わかるだろ??  うちに対してこれと同じ事をやったんだ 京都は。

そのデタラメ家系図にすることで、地位のないヤツも地位を獲得できたって事。

それで、盗んだ連中が、盗んだ元のうちを滅茶苦茶に貶めたという こんなの通用

すんのか??  そこらにいる盗賊たちに問いたい。その連中の家系のもの

借りたいとも思わんが、人んちにはこーいう事を平気でするのが貴族もどきの思考

なのさ。ぶち殺すとあたしが言うのは当然の話。

あと普通に考えたら、この子供の数は尋常じゃないでしょ?? 俺も俺もと言って

がちゃがちゃに混ぜたんだよ。そしたら、それを誰がやったか。

少なくとも、古事記を編集したのがさっき出た天智天皇(中大兄皇子)の兄弟。

そんでこの天智たちが開いたのが近江京 つまり百済国さ。

なんつー事やってんだ この移民たち。だから元々盗人なんだって桓武天皇も。

天皇でなくて、コイツらはマフィアな。

殷の最後の皇子=天智と記録にあるぐらい 殷は百済だ。

つまりサイコパスシャーマンの軍団って事。

亡命民だから つまり。明らかに、継体天皇あたりからは完璧な百済後漢系。



景行天皇がアキヒトらと同じ血筋なわけがないんだ だから。

宮内庁職員に払われた金が いかほど無駄銭だったか それに加えあたしからは

損害賠償を訴えたいレベルなので。


あと※4 これが後漢あたりまでか 昔の中国では年数を半年で1年に計算してた

文献を見つけたんだ あたしは。なのでこの年齢は半分で見る。

そしてそれを記録した人間が漢の時の人間だという事も辻褄が合う。


あと※5も捏造で作った可能性が大。まーた伊勢神宮だ。

この伊勢にも回った話な どー考えても不可解なんだよ。高国造ってタガ丸を指し

そーすると成務の子なんだよ タガ丸って。多賀とも書く。

そのタガ丸が伊勢で 人食い海賊と言われて桓武天皇の手下 坂上田村麻呂

成敗したとか伝説残ってるらしく、オイオイ 成務の子を桓武が人食い呼ばわりして

殺したの??  東北のアテルイと言われてるのに??

そんな八坂の子殺害行動は、東北征伐とか言う桓武も同じ。

例えて言うなら、景行(魏)と八坂(新羅)は天智(漢と百済)の流れに滅ぼされたと

言っていい。

その伊勢で成務はちゃんと扱わず、ヤマトタケルを扱う不思議・・・。

この成務とヤマトタケルって一応 兄弟の設定だぞ 資料では。

成務を皇太子に立てたのは景行天皇なのに、なんなんだ 伊勢??

これってあたしんちの北畠家の過去帖いじった行為とそっくりなんだが

伊勢も確信犯だよな。

タガ丸つまりアテルイの復讐と、北畠顕家の復讐 ダブルパンチになってるぞ伊勢。



景行天皇(けいこうてんのう、垂仁天皇17年 - 景行天皇60年11月7日)は、『古事記』『日本書紀』に記される第12代天皇(在位:景行天皇元年7月11日- 同60年11月7日)。和風諡号大足彦忍代別天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)・大帯日子淤斯呂和氣天皇古事記)。常陸風土記には大足日足天皇播磨風土記には大帯日子天皇、大帯日古天皇、大帯比古天皇日本武尊(やまとたけるのみこと)の父。※1

事績[編集]

年代は『日本書紀』の編年に従って便宜を図った。
垂仁天皇37年1月1日に立太子景行天皇元年7月に即位、翌2年3月3日に播磨稲日大郎姫を皇后に立てる。
4年、美濃国行幸し、泳宮(くくりのみや、岐阜県可児市)に滞在。八坂入媛命を妃とする。
51年8月4日、八坂入媛命との間の皇子・稚足彦尊(後の成務天皇)を皇太子に立てる。
※2
52年5月4日に播磨稲日大郎姫崩御したので、同年7月7日に八坂入媛命を新たな皇后とする。

古事記』によれば記録に残っている御子が21人、残らなかった御子が59人、合計80人も御子がいたことになっている。※3

58年、近江国行幸、高穴穂宮に滞在すること3年。60年11月に崩御、143歳。『古事記』では137歳。※4

日本武尊の活躍[編集] ←※5

27年8月、熊襲が再叛。10月に日本武尊を遣わして、熊襲を征討させる。首長の川上梟帥を謀殺し、翌年に復命。
40年10月、日本武尊蝦夷征討を命じる。尊は途中、伊勢神宮で叔母の倭姫命(やまとひめのみこと)より草薙剣を授かった。陸奥国に入り、戦わずして蝦夷を平定する。日高見国から新治(茨城県真壁郡)・甲斐国酒折宮信濃国を経て尾張国に戻り、宮簀媛(みやずひめ)と結婚。その後近江国に出向くが、胆吹山荒神に祟られて身体不調になる。そのまま伊勢国に入るが、能褒野(のぼの、三重県亀山市)で病篤くなり崩御した(景行43年)。白鳥陵に葬られた。なお、『古事記』によれば、死の直前に大和を懐かしんで「思国歌(くにしのびうた)」を詠んだとされ、この歌は、大東亜戦争中に東アジア地域へ派遣された兵士の間で大変流行ったという。
53年、息子の日本武尊を追慕し、東国巡幸に出る。東国から戻って伊勢に滞在し、翌年9月に纒向宮に帰る。