「田中館の戦い」 森鎮雄書では「七橋の戦い」 ここにある相馬軍勢はもはや相馬売名集団であって処分対象

まず福島県の城郭調査資料260ページと
森鎮雄の相馬略史80ページ さらに霊山記略300ページからなる資料に
鹿島町文化財87ページ
 
全部は応用できるまでいたってないがおおよそ こういう事だろうと思う
伊達義宗というのは 相馬藩の相馬義胤の事じゃないだろうな?
誰だかわからない 生まれがどうのって話は信用できないものだから
 
顕成の子が顕胤って書かれてる 顕成の子と書いておくが顕成本人かは
わからないが年齢的には顕成の子じゃないと活動雰囲気見ても合わない
 
中通り浜通りは そんな簡単に折り合いつくようなものではないわ
 
その時代だけだろう 中通りの懸田方面や保原梁川あたりが出てきて
霊山周辺も出るのは
実は森鎮雄の本に もう1つ戦の図が載ってる
その時代って 顕成のやったヤツなんだよ
この前 小高城代がまだ18歳とか あたしは書いてるよね?その経緯考えても小高が主体じゃないの
かと言って こっちは相馬一族ではないの
でも小高勢はね 顕胤という存在を盛胤の子ってでっちあげて
顕胤という実績を全部 吸い上げてたの
顕胤という存在の時の戦図がもう1つある
でもそれ以降はないの これって背乗りでしょ 乗っ取りでしょ
そいつらの実績 誰か1人のやった事を俺らが継承する!って言い分で
身分作りしてたんだよ
戦いすんならやればいい そんで死人出して遺族から2000年も恨まれる覚悟で戦やればいいんだ
それをしないで、死んだヤツの身内に恨まれ こっちの戸籍泥棒して実績だけ
自分たちでかぶってたら こっちはどうなんの?そいつらは、あたしんちが顕家の家だって知ってんだぜ?
 
言われてる事わかる? わかるから保原の教員たちは浪岡の事をネットに出したんだろ?
 
まず資料から、晴宗と植宗の喧嘩があったのは見つけた
その原因の1つに顕胤に相馬へ領地を譲ったって書いてあったのさ
顕胤でなく顕成の子
それ以外にもよく親子げんかあったようだ 植宗が父で晴宗が子
そのたび よく相馬が仲介してたっていうのは、相馬でなく顕成の子
その領地を譲ったという事が息子の晴宗に面白くないから逆上
それで桑折西山城に幽閉した1542年
それが救出され石母田に移ったとされるのがその1542年
その翌年今度は1543年に懸田に移った 
その翌年また石母田に移った しかし2ケ月後晴宗に攻撃されて外郭が焼き払われ八丁城へ移る事になった
 
たった1ケ月の出来事であっても時事として記載するかどうかだ
森側の文献の中見ると脱出は桑折も加わって 顕成の子が救出手伝った
ように感じる 一時的な退避ですぐ中通りへ戻ったんだろうけど
 
そして一時的に匿われるなら中舘だ
 
森鎮雄 相馬略史
ー伊達晴宗は父植宗を虐待する事が多く相馬顕胤(顕成の子)はしばしばこれをなだめていたがきかず、天文十一年に植宗がひそかに領地を相馬(顕成の子)に贈った事からさらに晴宗の無道の所為が甚だしくなりついに相馬と伊達の間に仲違いを生じた
顕胤(顕成の子)は掛田に宿陣し、伊達義宗と図ってしゅうと植宗を小高(中館)に迎え入れようとしたが、その間に黒木弾正兄弟と東郷治部らはひそかに掛田より帰り、亘理・宇多の兵を発して横手村に陣し田中城を攻めようとした。ー
※まず2つ直した 植宗が小高に行く理由がない。
そして顕胤でなく顕成の子 可能性として小高に行くなら伊達義宗が相馬義胤の場合だ。なぜ顕胤は領地をもらい、義宗は小高に植宗を連れていく?
その頃の領主として顕胤と書かれてる つまり譲られたのは顕胤
つまり顕成の子 でもこれ顕家の子息と思ったらこういう事もあると思うが
伊達義宗の存在がどうもおかしい 伊達義宗が小高に引っ張ろうとしてたように感じるし、植宗は中館に避難で来たと思ってる
そして田中城(館)はいわゆるカントリーエレベーターの事務所兼倉庫の機能があったかもしれなくて、それは城郭遺跡では出ていない あたしの推測
倉庫を襲おうとしたんだと思う 黒木たち
 
田中城(中館)を攻めようとしたが甚だ強固で容易に攻める事が出来ず、連合軍は陣を屋形(八沢)陣場山に進めて敷き、黒木勢は田中城(中館)に迫った。田中城(中館)においては城主の叔父(天神堂の僧)と一族が共に守ってよく防ぎ、城主桑折久家は顕胤(顕成の子)に従って掛田におったが、命をうけて急遽城へ戻ったー
田中城でなく中館だ。平地にある田中館が強固と言うなら兵力か武装体制を明記する所だ、兵隊の部分が記載なし、つまり城郭として強い立地を攻撃してると思われ該当するのは江垂中館。城主の叔父天神堂の僧とは、さっぱりわからないが、一族が守ってたと書かれてるから顕成の親族なのかどうかだ。
城主桑折久家とあるが、後に顕成の子から城主をやっていいよと言われたような記載があるので、この場面で城主ではない。
ー黒木勢はふたたび大軍をを出し伏兵を設けて「夜城下に向かい」時を見て退却した。桑折勢は血気の勇兵多く、これを計略とさとらずに逃げるを追い、寿姓寺山下の小橋までおしよせてきた。機を見て黒木の伏兵は前後よりおこって戦い、ついに桑折軍はやぶられ、桑折治部父子をはじめ多くの勇士が闘死するに至ったー
夜、城下に向かい。。。これは田中館でなく中館。田中館に城下はない、平地だから。これは中館。
ーこの頃、草野肥前の計略で伊達植宗は無難に篭中より抜け出し前後より武士が護衛して小高中館に移す事ができた。領主顕胤(顕成の子)は直ちに兵を督して行方郡江垂の中舘に陣し杉館には杉、岡田、堀内、大井等が隊を進めて陣をはり,寿姓寺山の兵と対陣した。相馬(顕成の子)軍は鹿島より兵を出して3隊となし、一を広野原、一を寿姓寺、一を田中城の後詰とし、黒木軍は2隊にわけ、一を広野原に伏せて一を前面の鈍怒女木より南方へ向かわせた。両軍はここに遭遇戦を展開し大いに戦ったがやがて黒木のほうは次第に壇の原に退いた。これを見た田中城兵は東方からうって出たので黒木軍は敗走しだし、この機を逸せず勝利を収めた相馬勢は真野川を渡って広野原北西に出て、ここ広野原に伏せた黒木勢は前後に敵をうける結果となった。北に南に旗差物がなびき、戦声は朝8時より訳12時間続いたがついに黒木兄弟は敗北し宇多に逃れた
顕胤(顕成の子)は軍をまとめて小高真野に凱旋し桑折久家には代々田中城主(田中館のほうで中舘ではない)たる事を約束され、また一方横手村・寺内村・小池村・岡和田村に塚を築き戦死者を埋めたがその数60余りにのぼったー
※これ書いた人は陸軍の歩兵隊隊長関係。植宗を誘導して連れてきた感じはある、しかしその後もない、植宗が鹿島より遠い小高へ行く理由があるなら伊達義宗とは相馬義胤なんじゃないのか?って事。植宗は中館へ一時しのぎで来てると思うから小高じゃないと思ってる。そして送り返す部分がないのも、中通りへ連れて行った人の記録を反映してないからだ。これは中舘に来て顕成の子が中通りへ送ってやってる、相馬藩はその古文を盗んだという事だ。
そして杉館に4人、この人たちが自分はわからない。
そして、中館を街宣したと思うが小高を街宣してるなら、なぜ死人の塚が
鹿島の地なんだ?横手=鹿島、寺内=鹿島、小池=鹿島、岡和田=鹿島、
小高や浪江の人が兵隊で来たならその地域に埋めるか現地に埋めるだろう?
現地から小池も寺内も岡和田も横手も離れてる。荷車で死体を運んでも60人なら多いから討ち合いで死んだ近くになるはずだ。小池なんて山のほうだし。
つまり、出た兵隊がみんな鹿島の人間だったんだ。
相馬顕胤と呼んで捏造ひろめたのは相馬藩であって、これ実質相馬ではない。
鹿島の兵隊に中通りの伊達傘下が混ざってたとしても桑折とは難しい関係性だ。伊達義宗という人間は何人かいる可能性あるが、小高城に出入りしてたならこれが相馬義胤になる。そして、それは伊達にとっていい感じがしない。
これが伊達だというなら顕成の子が立てて付き合ってた可能性はある。
でも小高方面より霊山城方面に向かうだろう。現地で素性わかってれば、多少の待遇はいいはずだ、当時。この待遇良しとして、一族だと言ってあれも欲しいこれも欲しい 連れてきて植宗懐柔 みたいな雰囲気は伊達が怒る、当たり前。
では、なぜ中館にいたのか。これが顕家の本尊あるせいだとあたしは昔から騒いでる。本尊を中館に置いたのは桑折でなく逃れてきた時の松代だ。
置いたんだぜ?最初から日吉神社だったんじゃないから。そこが危ないと言って逃げた松代が鹿島の寺内あたりで殺されてるとあたしは言ってる。鹿島で顕家の石棺があると記事に書いてるヤツがいたのは石棺と言うより松代がぶち込まれた木の棺だ たぶん。だからない。どこを探せば骨がある?わからないぐらい昔の事だ。
中館に置いたのは熊野権現もだったはずで、。小さい物だから持ち歩きされるとしたらこっちになるだろうが、うちにあった、つまり持っていかれた事があっても戻ってきてた。
 
顕成は顕家の後を追っていったん京都で公家修行をしてるはずだ
それをしない子はいない 親の後を追うのだから
その後 青森へ行ってるとされてるが、こっちに仏あるのでそれは出来ないと
あたしが言ってきた 戻ってからどうしてるかわからない
出目を隠してたのは間違いない 
武将やってないと思ったけど やってたんだな
 
古文窃盗やなんかをされたのは、この顕成の子が死んだ後からだろう
古文系図 なんでもあったようだ 検断奉行とか言って出入りし土足で入ってきた相馬藩が偉そうになって犯罪やってたのはこの時からだ
 
もう二度と鹿島の中館は無理だから
あそこには杉の阿弥陀堂みたいな雰囲気がある
 
もしかしたら中館に阿弥陀置いてたのを 杉の阿弥陀堂方面に隠された時期が
あったのか?なんであそこに違う仏を置いてるんだ うちが持ってきた?
だったら置きっぱなしにしない 文献だって残ってるはずだ
置かれた時期は江戸中期だ 文献あってもいい
ただ字が達筆で読めないが
 
こんな事ばかりしてた相馬藩が他所に比べ とてつもなく酷いというのは
はっきりしてる
うちが多田満仲の子だのなんだのってやられて 源孫の子じゃないヤツらが
待遇良くて大学まで行って あたしの目の前であたしが生活どれだけ浸食してるか
 
そのうち きわこって写真出すかもしれない 呪わしくて尋常じゃない
この前 わざわざまわって 墓石に呪いかけてきた 
どの面さげて あたしの生涯の手前 のうのうと生きてやがったんだろう
誰も教えない 教えるわけがない 源孫殺したんだから そこの関係
はずかしいの何の こんな醜態出さないといけないなんて
 
他所じゃ うちだけがこんな目にあってるなんて思ってない
鹿島に関わる畜生どもと相馬藩の奴らだ ここまで糞畜生なのは
 
きわこ時代より前にも但野は関係してるよな たぶん
洗脳と隔離 延々と黒木の糞婆はじめ
黒木との殺し合いみただけで 絶対黒木となんて源孫は一緒になってはダメで
なんつー事させてんだ?💢與惣治にほんとの事教えてないからだろ💢
これ気をつかって水面下で表に出さないように調べろってか?💢
無理に決まってんだろ 畜生!!!
 
相馬藩の家臣でしたってリストで全部ダメなの
相馬顕胤の時の実績がすごいって捏造されても これは相馬じゃないし
顕胤でもないの
だから北畠顕家ってだけでそいつらは二重仮面使うから使えないの
今更 昔の文献見て 顕胤につかえてたとか引っ張り出しても
現実そいつらは 尾崎セオドラ方面の相馬歴史継ぎたいゴミの都合になんの
 
千葉 相馬の実績なんぞ作りません 
当然アキヒト一家の子供らの実績も作りません
 
有料取引すら出来ない盗撮盗聴の盗人犯罪者が公側です
 
まだ文献に続きあるが いったんやめる