遣唐使の時代には日本の天皇は唐王朝から冊封を受けていない

これ 今 さらっと読んだ感想書きます。

やっぱり 中国で取引してたのはあたしの言ってる神功天皇系列で

魏志倭人伝に関わる血統だったのでは??

ほんで、遣唐使時代には中国からは新羅より下とされたのは

白江村の戦いも原因ではあると思う。

白江村の戦い 唐+新羅 VS  百済+大和 

なので、あたしの過去書いてきてるものの流れで あたしはその大和は

あたしの系統ではないと思うって今日も含め だいぶ前から書いていた。

それ ヤフーで過去ブログ消したものにも書かれているはず。

中国で対等に見てたのは 今の天皇血統なく あたしの血統だろうと思う。

あたしは中国 そんなに見下してないからね。

あたしは意外と相手を尊重するから。交わりたくないものはムシする。

たまには黙ってられない時もあるが・・・。

百済移民と 今日見つけた漢移民が合体してたみたい  大和は。

かつての・・・

唐王朝から冊封を受け取っていないヤマト血統ではない日本の朝廷・・・

そしてあたしは唐国の書がある。

これが天皇という位置に帰化人たちが乗っ取りしてきた日本史

古代取引してた国の古書を読もうとする人がいれば あたしも古書を読もうとしてる

歩みは一緒ということになる。

なお、日本は以前の遣隋使において、「天子の国書」を送って煬帝を怒らせている。遣唐使の頃には天皇号を使用しており、中国の皇帝と対等であるとしているが、唐の側の記録においては日本を対等の国家として扱ったという記述は存在しない。むしろ天平勝宝5年(753年)の朝賀において、日本が新羅より席次が下とされる事件があった。しかし、かつての奴国王や邪馬台国の女王卑弥呼倭の五王が中国王朝の臣下としての冊封を受けていたのに対し、遣唐使の時代には日本の天皇唐王朝から冊封を受けていない。
その後、唐僧維躅(ゆいけん)の書に見える「二十年一来」(20年に1度)の朝貢が8世紀ごろまでに規定化され、およそ十数年から二十数年の間隔で遣唐使の派遣が行われた。
遣唐使は200年以上にわたり、当時の先進国であったの文化や制度、そして仏教の日本への伝播に大いに貢献した。