中国から見えていた日本 この当時の天皇は代々朝鮮系だぞ?? あたしの調べでは


だから魏志倭人伝の頃の倭じゃないんだ 中国が相手してたのは。

たぶん雰囲気とか人格がこんなに違うか??っていうぐらいのレベルじゃないの??

そういう文句が中国の古書に載ってないか 興味ある。

だって あたしも帰化人 いまいち好きになれないもの。

コソドロに見えるんだ ここしばらくは。

「こそこそしてる泥棒」の略だ コソドロって。

ほんで、中国が向い合ってた日本の朝廷が その後に 南北朝時代に入るんだ。

それが北朝南朝天皇派閥争い。

だから、中国が当時向い合ってた朝廷は帰化人構成の百済に寄ってる組織って事。

あげく滋賀に百済移民が大量になだれ込んだ これこそ百済王朝を日本に

作ろうとした移民の実態。その人たちが、中国と取引してた魏志倭人伝の頃の

書物を焼失しましたと言って書き換えたの。責任者 中大兄皇子天智天皇

拠点は近江京。つまり滋賀。

それは北朝系の系列。

あたしは南朝系の系列。代々 九州方面きたと語り継がれてきた家系。

日本の天皇南朝北朝の派閥があったんだよ。

唐時代は 南朝ではないよ天皇たち。

だから日本の東北に製鉄所なんかあちこちに作ってあるんだ7世紀から9世紀。

朝廷という組織にほとんど関わっていないとも思ってる。

なぜ??  殺されるから。サイコパスだらけだったら、近寄りたくないでしょ・・・

それに天皇って単語 別に王でもいいわけじゃんか。

吉野朝廷だと蔵王権現あって、東北に蔵王連峰あんだし。

その吉野朝廷南朝とされている。しかし奈良だ。

行き来はあったかもしんないが、滞在してたかどーか・・・・。

今日本の大学 サイコパスだらけって書いてるでしょ。

そのサイコパス いつからってなったとき 40年ぐらいはそうなんじゃないかと

過去 書いてると思う。

だから中国で日本の大学に留学ラッシュあった時あると思うんだけど

今 起きてる事とのギャップについていけてるか 心配。

あたしは小さい時から 親戚が集まる席で天皇はインチキだ 朝鮮人だぞ

って聞かされてきたんだ。小学校の時からだぞ??

それを、外に出て口にしたら あたしがキチガイ扱いされるだろ・・・。

それが日本でやってきた事。

その小学校時代に、学校帰り 校門の外に聖書のテキストみたいなもの持って

配る大人がいるんだよ。みんなに渡してるんだ。

それを読んだら、天国に行けば幸せで地獄に落ちたらとことん苦しむっていう

描写が、絵がこわくて、捨てたいのに捨てていいのか、親に聞けなくて

困ってたら夜こわい夢見たりした記憶があるんだ。

いわゆるトラウマ。あんなもの もう見なくていい。

そしたら、自分の子供も学校帰り 配られたって聞いて、何十年経っても

そんな事起きてるんだ??って知ったんだけど、うちの子は堂々と

捨てたらしい。あたしほどに過敏じゃなくて良かったけども。

それがキリスト教徒との隣り合わせの生活だ 何十年とこーだ。

出先に、キリスト教徒が看板立ててスピーカーで聖書を読んでいる。

そこを通り過ぎる人たちがいる。大通りでキリシタンは聖書を読んでその冊子

みたいなものを配っている。

宗教の自由はあるんだけど、そういう勧誘との隣り合わせだ 日本は。


歴史[編集]

日本が最初に遣唐使を派遣したのは、舒明天皇2年(630年)のことである。推古天皇26年(618年)のの滅亡と続く唐による天下平定の情報は日本側にも早いうちから入っていた可能性があるが、聖徳太子蘇我馬子推古天皇と国政指導者の相次ぐ崩御薨去によって遣使が遅れた可能性がある。ちなみに、高句麗は唐成立の翌年、新羅百済はその2年後に唐への使者を派遣している。だが、この第1次遣唐使は結果的には失敗であった。唐は帰国する遣唐使高表仁を随伴させたが、高表仁は日本にて礼を争い、皇帝(太宗)の言葉を伝える役目を果たせずに帰国した(争った相手については『旧唐書』は倭の王子、『新唐書』は倭の王とする)。『日本書紀』にはこのような記述は存在しないものの、高表仁の難波での賓礼以降、帰国までの記事が欠落すなわち高表仁と舒明天皇の会見記事が記載されておらず、何らかの異常事態が発生したことを暗示している。詳細は不明であるが、唐側が日本への冊封を意図して日本がこれを拒んだなどのトラブルが想定されている。その後、しばらく日本からの遣使は行われず、唐側も突厥高昌との争いを抱えていたため、久しく両者間の交渉は中絶することになる[1][2]
その後、白雉4年(653年)から天智天皇8年(669年)まで6度の遣唐使が相次いで派遣されているが、朝鮮半島情勢を巡って緊迫した状況下で行われた遣使であった。地理的に唐から離れていた日本は国際情勢の認識で後れを採り、特に斉明天皇5年(659年)の第4次遣唐使は唐による百済討伐の情報漏洩を阻止するために唐側によって抑留され、2年後に解放されて帰国するまでの間に日本側では百済救援のために唐との対決を決断する(白村江の戦い)。その後の遣使は両国の関係改善と唐による「倭国討伐」の阻止に向けた派遣であったと考えられる。やがて、唐と新羅の対立が深まったことで危機的状況は緩和され、日本側も壬申の乱の混乱とその後の律令体制確立への専念のために再び遣使が行われなくなる[3]
遣唐使の歴史にとって大きな画期になるのは、大宝2年(702年)に派遣された遣唐使である。日本側の遣使の意図は不明(一時期有力視された石母田正の「大宝律令を唐側に披露した」という説は、唐王朝周辺諸国律令編纂を認めなかったとする説が有力となったことから成立困難となっている)だが、当時則天武后の末期にあたり、唐(当時は「」)の外交が不振な時期であったため、積極的な歓迎を受けた。日本国号変更(「」→「日本」、どちらも同じ国号「やまと」だが漢字表記を変更)が通告されたのもこの時と推定されているが、記録の不備あるいは政治的事情からか遣唐使が唐側を納得させる説明が出来ず、後の『旧唐書』に「日本伝」と「倭国伝」が並立する遠因になったとみられている[2][3]