唐国って意外と広範囲だったんだね

これだけ範囲が広いと、あたしのブログもかなり需要あるかな・・・。

ちなみに唐国の書 返してと言われたら、お返ししますよ。

どういうルートでうちに渡ったのか・・・。

いつかの九州の方の写真も 親族がいたらお返ししますので。

ただ、うちの先祖が大事に蔵へしまってたもののひとつ、ひとつだから。

ほんとは表装とか直すべきなんだろうけど、お金なくてね。

そーいえば 他にも中国風景の水墨画あったよ。今日でなくてもいいよね??

そのうち 見せてあげる。

中国の風景画 もしや その書と一緒の頃のものだったりして・・・。

そーいや ボロボロでね 丸めてある掛け軸を開いてるうちにボロボロに

紙が割れて中身の見れないヤツもあった。

もしかして、すんごいものだったら 申し訳ないね・・・。

それ ひろげられないよ。バラバラだもの。

そーいうの たぶん国宝級の品物だったかもしれんのだよ。

しかし、天皇家は少なくとも百済系で続き 大正でまた百済

そんな流れで南朝のもの 受け入れるとこがなかったんだ。

差別されるから表に出せなかったんだよ。だから手入れも出来なくてボロボロ。


国号[編集]

国号の「唐」はの古名であり、もとは山西省を中心とする地域を指した。古代にはが建てたといわれる伝説上の王朝「陶唐」があった。また、の時代には周公旦(武王の弟)が討伐して、滅ぼした武王の子・唐叔虞が立てたの別称としての唐とは別に、春秋時代に今の湖北省の一部に(zh)を国号とする小国があったことが知られ、と盟約を結ぶも、紀元前505年によって滅ぼされた(『春秋左氏伝』)。
本項の唐の滅亡後、五代十国時代には李存勗後唐、十国のひとつ南唐などが唐の後継者を自認して唐を国号としたこともあった。後唐王家は臣下の朱邪赤心が功績によって李姓を唐王朝から賜った家であり、南唐王家は「唐の憲宗の八男・建王李恪の子孫」を称したが、いずれも唐王朝李氏の直系とはいえない。