南朝武将 河村氏は平家にも南朝にもついた。ご苦労さまだった。
神尾田神社
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天満神社と河内川
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酒匂川←戦のたんびに酒を陣営で飲んだ縁だな。悲しい気持ちを慰めるのに宵は酒を飲んだ。悲しい名づけだ たぶん。
河村城
概要[編集]
歴史・沿革[編集]
それに対抗した平家っていうのは、あたしのサイド。だから桓武平氏と平家は別なんだ。平家についたのか河村氏。
河村秀清
河村 秀清(かわむら ひできよ、治承元年(1177年) - 没年不詳)は、鎌倉時代の武将・御家人。相模国足柄郡河村郷(現・神奈川県足柄上郡山北町)の住人。藤原氏秀郷流、波多野氏の一族。幼名は千鶴丸、通称は四郎(河村四郎)。
概要[編集]
治承元年(1177年)に波多野義通の実弟・河村秀高(ひでたか)の四男(母は源頼朝の御所の女官である京極局)[1]として生まれる。兄に河村則実(のりざね、柳川二郎)と河村義秀(よしひで、河村三郎)、弟に河村秀経(ひでつね、河村五郎)がいる。「河村」の姓は、父・秀高(名は遠実(とおざね)とも)がその父(秀清の祖父)である波多野遠義(とおよし)から河村郷の所領を譲られてそこを本拠とし、その地名をとって名乗ったことに始まる[2]。
箱根町元箱根↓ うちは多田と北畠だよ。
https://www.google.co.jp/maps/place/%E3%80%92250-0521+%E7%A5%9E%E5%A5%88%E5%B7%9D%E7%9C%8C%E8%B6%B3%E6%9F%84%E4%B8%8B%E9%83%A1%E7%AE%B1%E6%A0%B9%E7%94%BA%E7%AE%B1%E6%A0%B9/@35.1897423,138.9880999,13z/data=!3m1!4b1!4m2!3m1!1s0x60199869ae2f80d7:0xc2616941fb5ff41d