藤原秀郷とは・・・八幡と百済 どっちサイドか
まず あたしが思う この藤原 最近調べた群馬と栃木の山間部
ここに平家をまとめて匿った張本人だと思う
ほんで将門を討ったとされてるのであれば、半分半分
将門は討たれた後に肉体をバラバラにされて頭部は京都に運ばれている伝説がある。
この藤原がバラバラ解体する桓武系か??って事がまずひとつ。
あとは、さらっとウィキを見た感じ こちら側の人のような気がする。
唐沢山か・・・・つまり唐っつーことは東北にいた奥州藤原系じゃないか。
あと詳しい記録が残っていないのも、うちの系統だろう。
あたしと真逆の人たちは、とにかく記録をとっている。あとは記録に捏造を加えて
いる。しっかりと自分らの神殿や城を大金かけて築く。あとその居ただろう地名に
あたしと真逆の人たちの単語が出てくる。あたしと真逆の人たちは反乱や一揆なんか
も起きてたりしてる。
将門は誰に討たれたのか 百済に討たれたんだ。
大昔から百済と八幡の戦争だから。
将門は桓武平氏とされているけども、平家だ。さいさん書いてる意味がわかるか。
繋がっている。将門は百済と不和 そして結末は死んでいる そんで怨念化してる
って事は百済に対しての怨念だとわかるだろう。
そしてこの百済に対抗したのは八幡と平家。
平家はペルシア系 たとえばゾロアスター教
だから血統だけでは分別つかない事も多々ある。どういう教育を受けたか
どういう思想を持ってたか それが人格を構成するし行動も伴うのだから。
あと日本で戦を起こした時に相手の遺体を切断するやり方はじめたのは
そん時に首をはねて晒したという行為は、首狩り族が入ってる事も指す。
日本はいつから首狩り行為をはじめたのか 調べていく必要あるって
いつか書いた気がする。。。。その首狩り行為に伴ってるのが 祈願行為。
普通の侍になったつもりで考えたら、相手を刀で斬りつける あるいは刺す。
ところが、ある特定の時期から首狩り行為になっている。これは何を指すのか。
信仰なんだよ。信仰に使うのに首を使う これって昔から日本にあったわけでは
なく、入ってきたもの。じゃあどこから入ったのか そのルーツが
豪族は、この首狩り行為をやった。つまり日本に定着してた人たちではない。
一番古いとこが将門の時なのかどうか・・・。
白村江の戦い(はくすきのえのたたかい、はくそんこうのたたかい)は、663年(天智2年)8月に朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近)で行われた、倭国・百済遺民の連合軍と、唐・新羅連合軍との戦争のことである。
この頃、武蔵権守となった興世王は正式に受領として赴任してきた武蔵守百済王貞連と不和になり、興世王は任地を離れて将門を頼るようになり、また、常陸国の住人の藤原玄明が将門に頼ってきた。この玄明はやはり受領と対立して租税を納めず、乱暴をはたらき、更に官物を強奪して国衙から追捕令が出されていた。常陸介藤原維幾は玄明の引渡しを将門に要求するが、将門は玄明を匿い応じなかった。
室町時代に「俵藤太絵巻」が完成し、近江三上山の百足退治の伝説で有名。もとは下野掾であったが、平将門追討の功により従四位下に昇り、下野・武蔵二ヶ国の国司と鎮守府将軍に叙せられ、勢力を拡大。死後、贈正二位を追贈された。源氏・平氏と並ぶ武家の棟梁として多くの家系を輩出したが、仮冒の家系も多い。
俵藤太(田原藤太、読みは「たわらのとうだ」、「たわらのとうた」、藤太は藤原氏の長、太郎」の意味)という名乗りの初出は『今昔物語集』巻25「平維茂 藤原諸任を罰つ語 第五」であり、秀郷の同時代史料に田原藤太の名乗りは見つかっていない。由来には、相模国淘綾郡田原荘(秦野市)を名字の地としていたことによるとする説、幼時に山城国近郊の田原に住んでいた伝説に求める説、近江国栗太郡田原郷に出自した伝説に求める説など複数ある。
秀郷は下野国の在庁官人として勢力を保持していたが、延喜16年(916年)隣国上野国衙への反対闘争に加担連座し、一族17(もしくは18)名とともに流罪とされた。しかし王臣子孫であり、かつ秀郷の武勇が流罪の執行を不可能としたためか服命した様子は見受けられない[3]。さらにその2年後の延長7年(929年)には、乱行のかどで下野国衙より追討官符を出されている。唐沢山(現在の佐野市)に城を築いた。
天慶2年(939年)平将門が兵を挙げて関東8か国を征圧する(天慶の乱)と、甥(姉妹の子)[1]である平貞盛・藤原為憲と連合し、翌天慶3年(940年)2月、将門の本拠地である下総国猿島郡を襲い乱を平定。平将門の乱にあっては、藤原秀郷が宇都宮大明神(現・宇都宮二荒山神社)で授かった霊剣をもって将門を討ったと言われている。平将門の乱において藤原秀郷が着用したとの伝承がある兜「三十八間星兜」(国の重要美術品に認定)が現在宇都宮二荒山神社に伝わっている[4][5]
将門を討つという大功を挙げながらも、それ以降は資料にほとんど名前が見られなくなり、没年さえも不詳である。
生没年は不詳だが、将門討伐のときにはかなりの高齢だったといわれている。