ほらな 漢民族なんだよ あたしが言ってる事は当たってるんだ。


ほらな 漢民族なんだよ あたしが言ってる事は当たってるんだ。
ほんで日本人がこの分別を知らされていなかっただけ。
連中のほうは、はるかに自分らの起源を知っている。


高句麗→668年以降 一部遺民がモンゴルへ

滅亡後[編集]

北部の高句麗遺民は唐によって営州(現在の遼寧省朝陽市)へ強制移住させられた。高句麗の末裔による数度にわたる再興は全て失敗したが、一部の遺民は、粟末靺鞨の建国した渤海国に参加している。旧領に残った者は、後に勃興した女真に取り込まれていき、歴史から姿を消した。
391年に即位した19代好太王後燕と戦って遼東に勢力を伸ばし、南に百済を討って一時は首都漢城(現ソウル特別市)のすぐ傍まで迫り、百済王を臣従させた。

平壌城時代 (高句麗新羅) VS 百済 この時点で殺し合いの敵対関係 百済天皇家

遷都直後は大城山城を拠点としたが、後に平壌城に居城を構えた。長寿王は西へ進出して遼河以東を勢力下に収め、475年には百済の首都を陥落させて百済王を殺害、百済は南に遷都した。この時期は満洲南部、遼東半島朝鮮半島の大部分を支配するに至った。
一部の遺民は宝蔵王庶子(あるいは淵蓋蘇文の甥ともいう)の安勝を担いで新羅に入り、新羅から高句麗王(後に報徳王)として冊封され、新羅内で684年まで命脈を保った。
また、遺民の一部にはへ逃れた者もいる。例えば『続日本紀』によれば、武蔵国高麗郡(現在の埼玉県日高市飯能市)は高句麗の遺民たちを移して設置したとされており。高麗神社高麗川日高市高麗本郷などの名にその名残を留めている。

蒙古
蒙古は、モンゴル高原に居住する遊牧民や、彼らが居住する地域についての自称モンゴルに対する、中国語による音写の一種。鎌倉時代では、「もうこ」と共に「むくり」や「むこ」などとも呼んでいた。Wikipedia


蒙古←700年代

蒙古には「おろかで古い」という悪い意味合いがある漢民族による蔑称であるとして、日本ではモンゴル人と日本人の合同署名による広告活動で、使用をやめるように運動が起きている [1] 。しかしながら元寇を指す「蒙古襲来」や蒙古斑など、定着している表現もある。
モンゴルが歴史の舞台に姿を現すのは7世紀室韋の一派としてである。



宋 (王朝)960年から1200年

満州から南下して来た女真族1115年を建国していた
1233年モンゴル帝国は金の首都開封を陥落させ、南に逃げた金の最後の皇帝哀宗を宋軍と協力して追い詰め、1234年に金は滅びた。
1235年、宋軍は北上して洛陽開封を回復したが、これはモンゴルとの和約違反であり、モンゴル軍と戦闘状態に入る(モンゴル・南宋戦争)。
南宋も末に近づき、モンゴルの攻撃が日に日に激化する中で、激情を詠んだのが文天祥である。文天詳の詩としては「正気の歌」が有名で、その亡国を悲しむ詩は後世の愛国者に深い感銘を与えた。
南宋滅亡後、の時代になっても「宋の遺民」として過ごす人々がおり、彼らは在りし日の宋を懐かしんで歌に詠んだ。代表としては汪元量謝翺鄭思肖らの名が挙がる。

元寇→1274年から1281年

元寇(げんこう)とは、日本鎌倉時代中期に、当時大陸を支配していたモンゴル帝国大元ウルス)およびその属国である高麗王国によって2度にわたり行われた対日本侵攻の呼称である。1度目を文永の役(ぶんえいのえき・1274年)、2度目を弘安の役(こうあんのえき・1281年)という。蒙古襲来とも。
特に2度目の弘安の役において日本へ派遣された艦隊は、元寇以前では世界史上最大規模の艦隊であった[46]
主に九州北部が戦場となった。

元 (王朝)←1200年代から1360年代

(げん)は、1271年から1368年まで中国モンゴル高原を中心とした領域を支配した王朝である。正式の国号は大元(だいげん)で、元朝(げんちょう)とも言う。モンゴル人のキヤト・ボルジギン氏が建国した征服王朝で国姓は「奇渥温」である。
中国王朝としての元は、北宋崩壊(1127年)以来の中国統一政権であり、元の北走後は1368年 - 1644年)が中国統治を引き継ぐ。後述するように、元は政治制度や政治運営の特徴においてはモンゴル帝国に受け継がれた遊牧国家特有の性格が強く、一方で行政制度や経済運営の特徴は南宋の仕組みをほぼそのまま継承している。用語上でモンゴル帝国が伝統的な中国王朝の類型に変化したものであるというような誤解を避けるために、遊牧民の国を指すウルスという語を用いて特に大元ウルスと呼ぶべきであるとする意見もある[1]



→しからば、700年代と1200年代には文献であるとしよう。
そしたらそれ以外の時代は何人だったのか どこに所属していたのか
宋はモンゴルつまり元に食われた。