ほらな 漢民族なんだよ あたしが言ってる事は当たってるんだ。
ほらな 漢民族なんだよ あたしが言ってる事は当たってるんだ。
ほんで日本人がこの分別を知らされていなかっただけ。
連中のほうは、はるかに自分らの起源を知っている。
高句麗→668年以降 一部遺民がモンゴルへ
滅亡後[編集]
北部の高句麗遺民は唐によって営州(現在の遼寧省朝陽市)へ強制移住させられた。高句麗の末裔による数度にわたる再興は全て失敗したが、一部の遺民は、粟末靺鞨の建国した渤海国に参加している。旧領に残った者は、後に勃興した女真の金に取り込まれていき、歴史から姿を消した。
平壌城時代 (高句麗→新羅) VS 百済 この時点で殺し合いの敵対関係 百済は天皇家
遷都直後は大城山城を拠点としたが、後に平壌城に居城を構えた。長寿王は西へ進出して遼河以東を勢力下に収め、475年には百済の首都を陥落させて百済王を殺害、百済は南に遷都した。この時期は満洲南部、遼東半島、朝鮮半島の大部分を支配するに至った。
蒙古
蒙古は、モンゴル高原に居住する遊牧民や、彼らが居住する地域についての自称モンゴルに対する、中国語による音写の一種。鎌倉時代では、「もうこ」と共に「むくり」や「むこ」などとも呼んでいた。Wikipedia
蒙古←700年代
宋 (王朝)960年から1200年
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%8B_(%E7%8E%8B%E6%9C%9D)
元寇→1274年から1281年
元寇(げんこう)とは、日本の鎌倉時代中期に、当時大陸を支配していたモンゴル帝国(大元ウルス)およびその属国である高麗王国によって2度にわたり行われた対日本侵攻の呼称である。1度目を文永の役(ぶんえいのえき・1274年)、2度目を弘安の役(こうあんのえき・1281年)という。蒙古襲来とも。
主に九州北部が戦場となった。
元 (王朝)←1200年代から1360年代
元(げん)は、1271年から1368年まで中国とモンゴル高原を中心とした領域を支配した王朝である。正式の国号は大元(だいげん)で、元朝(げんちょう)とも言う。モンゴル人のキヤト・ボルジギン氏が建国した征服王朝で国姓は「奇渥温」である。
中国王朝としての元は、北宋崩壊(1127年)以来の中国統一政権であり、元の北走後は明(1368年 - 1644年)が中国統治を引き継ぐ。後述するように、元は政治制度や政治運営の特徴においてはモンゴル帝国に受け継がれた遊牧国家特有の性格が強く、一方で行政制度や経済運営の特徴は南宋の仕組みをほぼそのまま継承している。用語上でモンゴル帝国が伝統的な中国王朝の類型に変化したものであるというような誤解を避けるために、遊牧民の国を指すウルスという語を用いて特に大元ウルスと呼ぶべきであるとする意見もある[1]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83_(%E7%8E%8B%E6%9C%9D)
→しからば、700年代と1200年代には文献であるとしよう。
そしたらそれ以外の時代は何人だったのか どこに所属していたのか
宋はモンゴルつまり元に食われた。