あと、曹操が人食いだったのかどうかをウィキから調べると、人食いではない


その後、曹操は私財を投じて陳留郡己吾において挙兵した[6]。『世語』では陳留郡の孝廉である衛茲の援助を受けたとしている。とはいえ当初の仲間は夏侯惇夏侯淵曹洪曹仁曹純兄弟といった身内が中心であり、その勢力は小さなものにすぎなかった。

董卓が洛陽を焼き払い長安に遷都したので、曹操は盟主の袁紹に好機だと迫ったが、諸侯の打算により、攻撃命令は下されなかった。業を煮やした曹操鮑信張邈の配下の衛茲とともに董卓を攻撃した。しかし曹操・鮑信・衛茲の軍は董卓配下の徐栄との交戦により壊滅的な打撃を受け、衛茲は戦死した。その後、曹操は軍の再編をするために揚州などで徴兵し、兵に反乱を起こされたこともあったが鎮圧し[7]司隸河内郡に駐屯した。董卓長安に撤退し、孫堅が洛陽を制圧すると、反董卓連合軍は解散した。

河内源氏の河内

曹操は兗州に戻り、呂布を攻めたが敗れ、青州兵は大打撃を受けた上に、曹操自身も大火傷を負った。幸い荀彧程昱夏侯惇などが本拠地を守り抜き、蝗害による飢饉が起き、兵糧の尽き果てた呂布が軍を引いたため、曹操は帰還を果たすことができた。

このような時、袁紹が機を見計らったかのように援助を申し入れてくるが、程昱の反対もあり、曹操はそれを断る。この年の秋、蝗害と旱魃のため穀物の値段は1石50余万銭にもなり、一帯では人が人を食らう状態になっていた。そんな中、徐州では陶謙が死に、劉備がそれに代わっていた。

建安12年(207年)、袁氏に味方する蹋頓烏桓族を討ち、20数万人を降伏させ、袁紹の子の袁尚袁煕を滅ぼし、幽州を平定し、河北(黄河の北岸地域)を統一した(白狼山の戦い)。

黄河周辺を統一したというのは黄河文明エリアに関係してるから。

建安18年(213年)に董昭らの提案に従い魏公となり、建安21年(216年)に魏王に封じられ、後漢皇帝が治める帝国内の一藩国、つまり王国として魏を建国。献帝には権力は無く、実際には後漢を背負う曹操だが、最後まで帝位にはつかず後漢の丞相の肩書きで通した。簒奪の意を問われた曹操は「自分は(の)文王たればよい(文王は(商)の重臣として殷に取って代われる勢力を持っていたが死ぬまで殷に臣従し、殷を滅ぼした子の武王によって「文王」を追号された)」としてその意を示唆したともいう。

⇒いや、これが後の不幸を招いた

建安25年(220年)、病のため死去。「戦時であるから喪に服す期間は短くし、墓に金銀を入れてはならず」との遺言を残した。死後、息子の曹丕後漢献帝から禅譲を受け皇帝となると、太祖武帝追号された。

また『世説新語』軽詆篇によると、荊州劉表は荷車は引けないが大食の巨大な牛を所有していて、それを自慢していた。だが曹操荊州を征服した際、その牛を「どんなに大きくても役に立たないのでは意味が無い」と見なし、屠殺して宴の肴にしてしまったという。

⇒牛を屠殺し食した事になる

曹操の外見は正史には書かれていないが、野史には「形陋[23]」「姿貌短小[24]」とあり、小男であったことが記述されている。

⇒肉をあまり食べない人はたいがい小柄。つまり人肉を食していたならば体格は大きいし、祈祷まがいの行事も多々発生するはずなので。それが曹操には見られない。

農政において、他の群雄達が兵糧確保の為に農民から略奪のような事をしていた当時、曹操韓浩棗祗らに提言された屯田屯田制)と呼ばれる農政を行った。屯田とは、戦乱のために耕すものがいなくなった農地を官の兵士が農民を護衛して耕させる制度である。屯田制は当初は難航したが、袁渙の提案や任峻の尽力などにより軌道に乗せることに成功した。これによって潤沢な食料を抱えることになった曹操は、各地の民衆を大量に集めることができるようになった。この屯田制が、後漢の群雄割拠の中でそれほど出自的に有利ではない曹操が、他の群雄を退け勝ち残る理由の一つとなった。

曹操が農耕から出たものを食していたのは明白。環境がそのようだから。

裴松之が引用する張華の『博物志』では、草書・音楽・囲碁に長けた当時の人物を紹介した後、彼らに劣らぬ腕前の持ち主として曹操の名を記している。また、食に対する興味・関心が深く、知識も豊富であったことが伺える[44]。なお、陝西省漢中博物館には、曹操が書いたと伝わる文字(石刻)の拓本が残る。

⇒食に対する興味や関心が深い、かつ知識も豊富と文献に残ってるということは、人肉に関してはほぼ遠い。




天子←古代中国においての天子とは太陽暦を用いた。しかしそれは一部の人間の思想。これを天孫族とした連中とは別物。


天子(てんし)とは、中国日本で用いられた君主の称号。天下を治める者。国王皇帝天皇などの別号として用いられる。
天帝)の子であり天命により天下を治めるとする古代中国の思想を起源とする。代、周公旦によって「天帝がその子として王を認め王位は家系によって継承されていく。王家がを失えば新たな家系が天命により定まる」という「天人相関説」が唱えられ、天と君主の関係を表す語として「天子」が用いられるようになったという。始皇帝により、天下を治める者の呼称が神格化された皇帝へと変わると、天子の称は用いられなくなったが、代にいたり儒教精神の復活をみると、再び天子の称が用いられるようになり、それは皇帝の別名となった。
皇帝の支配は、空間領土)の支配と時間年号)に及び、皇帝以外の者の支配は許されなかった。前漢武帝は、太陰暦太陽暦を合体した太初暦を制定。皇帝の下した暦を用いるのが、皇帝の主権を認めた証拠となり、これを「正朔を奉ずる」と言った。皇帝は天帝に対しては天の子=天子として天を祭る儀礼を司り、それは皇帝だけに許された神聖儀礼として朝に至るまで連綿と引き継がれた。