北海道 牧場で競走馬2頭死ぬ、猟銃で撃たれたか


あたしはさいさん書いた。

相馬野馬追いは天皇隠しの誤魔化し事だって。

北畠の騎馬隊行事でも作るか 野馬追いをやめるか 広島へ行ってやるか

どうする??

建武3年(1336年)1月2日、顕家軍は鎌倉を攻め、足利義詮桃井直常の軍勢を破り、鎌倉を占領した[4]。翌日、佐竹貞義が顕家の追撃に向かったため、顕家は鎌倉を出て進撃を開始した。その後、1月6日には遠江に到着し、12日に近江愛知川に到着した[4]
なお、顕家の軍勢はこのとき、1日に平均40km弱も移動して600kmに及ぶ長距離を僅か半月で駆けており、渡渉などが続く中1日30kmのペースを維持している。これは後の羽柴秀吉中国大返しを遥かに越える日本屈指の強行軍である。

ただ ここではっきりしておきたいのは

将門は誰のために奮起し、誰のために戦い、誰が殺したのか

新皇名乗ったというのが 単語が新皇でないにしろ 同じこと

天皇の地位を指す

これを明治政府では反逆者扱いしないと言った

その明治政府は、野馬追いやってる中村相馬藩の馬を全部処分した。

今日な 久しぶりに霊山神社行って 書いてあること 読んできたよ。

後醍醐天皇のやった建武親政って 後の明治維新と同じだってさ。

ところがうちの界隈では 後醍醐天皇をこう言ってる



以下 相馬教材↓

後醍醐天皇は武士に政治をまかせておかないで、自ら政治を執り行うこととしました。そこで天皇は、政治を任せていた武士組織である鎌倉幕府を倒させました。
政治はもともと公家のものだから取りかえしたというわけです。しかし、後醍醐
天皇鎌倉幕府が倒れたあと行ったのは、功労のあった公家さんたちはほめてやりましたが、武士は功労があってもほめてやりませんでした。人間、こういうことはあとにひいてしまうでしょ??天皇に味方してやった武士たちはおもしろくありません。
その武士たちの気持ちを感じたのは・・・

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ちなみに平将門は千葉なんだが、なんで福島で将門祭りをやっているのか
千葉に相馬郡小高町というのは実在していた。

あたしは数年前 ネットでウィキ調べた時、平将門福島県相馬郡小高町出身の
母親の元で育ったと見ていたが。

今は出てこないらしい。この分家が宮内庁へ入る前にうちから9万両踏み倒しするのに借用書をうちから強奪しているので、死刑にしてもらいたいものだ。

あとな。将門が関東の武士団もった背景には河内源氏の分裂系がそこに混ざってるんだ。地名から割り出した。河内源氏源頼義って河内源氏だけど、この頼義と長いこと戦になったのが大嶽丸サイド。頼義は多娥丸サイド。だから頼義の跡継ぎは北畠がやってるんだ。その北畠と源満仲系統の血だから うちは。
多賀城にいたっていうのは多賀 つまり多娥丸拠点を指す。

これが日本にあった過去の巨大な勢力よ。ハメられてなきゃ日本は変わってた。
伊勢や出雲が戦争焚き付けした責任は今後えんえんと問う。


千葉氏は小田原征伐後北条氏に属し大名としては滅亡したが、地主や庄屋となって一部は続いた。また分家の相馬氏は戦国時代を生き延び相馬中村藩主として幕末を迎えた(養子を数回迎えているものの、女系で血縁を維持している。系譜を参照)。その他の春姫の子孫は秩父平氏として栄えた。その一族からは秩父氏河越氏江戸氏などが出ている。




市川の八幡 そーか 将門の部下が関与してるのか

さいさん提示してるとおりだろ??  千葉でわかったか 八幡と将門と天神

おなじ盟友だっていう意味が。

だから 馬を飾っていいのは 南総の千葉氏だ。


www.pasonisan.com/rvw_trip/15-05yawatano-yabusirazu.html - キャッシュ
千葉県市川八幡にある八幡藪知らずは、「一度入ったら出てこれない、入れば必ず 祟られる」という禁足地。気になるのは市川市に根付く平将門伝説である。

ja.wikipedia.org/wiki/八幡藪知らず - キャッシュ
八幡の藪知らず(やわたのやぶしらず)は、千葉県市川市八幡にある森の通称。古く から「禁足 ... 市川市が設けた解説板には「不知八幡森(しらずやわたのもり)」と記されて おり、ほかに「不知森(しらずもり)」「不知藪(しらずやぶ)」とも称され...



猟銃で撃たれ? 競走馬2頭死ぬ

2016年2月28日(日) 19時5分掲載

北海道 牧場で競走馬2頭死ぬ、猟銃で撃たれたか




南朝が悲劇ばかり語っている??

南朝の悲劇は国民の悲劇だぞ??

原爆落としたのアメリカ・アメリカにくっついてたのが北朝

王でもないのに王と名乗り国費を流用しまくったのは

天皇と語る連中だけでなく、文化庁宮内庁もだ。

国が統一されていると思うか??この不平等な歴史の扱い方。

あとキチガイカルトの増殖と浸食・これも北朝

大昔の一向宗一揆も焚き付けと飼い主は北朝

幕府を困らせるため。

幕府の権力が欲しかったらしい当時の朝廷はもちろん北朝

農民一揆は、土建の出来ない能無しが農民を使ったことによる

不作。

そこから年貢をかき集め、城を作ろうとする武家

そして朝廷に貢ぐ。

南朝が滅んだとされる時期から南朝が表に出て行かなかったのは、理由がある。

ひとつは、出ていっても坊主に囲まれて洗脳され寝返ってしまう精神の植えつけをされてしまうこと。

もうひとつは、自分らが戦っても死ぬのは部下。その部下を作るには、かなりの人命を失い、同じ事を繰り返してもまた人命を損ねると考えたこと。

もうひとつは、戦争を考えれば金が必要。武装するにも兵隊の生活に関わるものにしても。遠征費用も莫大になる。それを集めるのに、農民から貢がせるか??

当時の坊主はずいぶんと金集めてただろうな。

その坊主が朝廷に金を持って貢ぎにいくのだから、延々と
北朝は潰れない。

唯一、朝廷に金がなくなってきた時代が後奈良天皇の時。

今じゃ三種の神器は意味がなかったとあたしが提示しているけど、とりあえず当時はこの神器移転で和睦とされた。

それが1392年

そして朝廷が金がなくなったのが1526年・後奈良天皇の際が
最初。

その間134年朝廷はひっ迫し続ける。


後奈良天皇(ごならてんのう、明応5年12月23日1497年1月26日) - 弘治3年9月5日1557年9月27日))は、室町時代戦国時代の第105代天皇(在位:大永6年4月29日1526年6月9日)- 弘治3年9月5日1557年9月27日))。知仁(ともひと)。

略歴[編集]

明応5年(1497年1月26日権中納言勧修寺政顕の屋敷で誕生。大永6年(1526年4月29日後柏原天皇崩御にともない践祚した。しかし、朝廷の財政は窮乏を極め、全国から寄付金を募り、10年後の天文5年2月26日1535年3月29日)にようやく紫宸殿にて即位式を行う事ができた。寄付した戦国大名後北条氏大内氏今川氏などである。




後亀山天皇(ごかめやまてんのう)は、南北朝時代の第99代天皇にして、南朝最後の第4代天皇(在位:弘和3年/永徳3年(1383年)冬 - 元中9年/明徳3年閏10月5日1392年11月19日))。熙成(ひろなり[2])。 北朝を擁護する将軍足利義満が提示した講和条件を受諾して、三種の神器北朝後小松天皇に伝えて譲位し、南北朝合一を実現した。
明治44年(1911年)に南朝が正統とされたため、歴代天皇として公認されるようになった。



正親町天皇(おおぎまちてんのう、永正14年5月29日1517年6月18日) - 文禄2年1月5日1593年2月6日))は、第106代天皇(在位:弘治3年10月27日1557年11月17日) - 天正14年11月7日1586年12月17日))。方仁(みちひと)。

朝廷の財政は逼迫し、権威も地に落ちかけていた永禄11年(1568年)、織田信長は、正親町天皇をお護りするという大義名分により、京都を制圧した[4]。 この上洛によって、皇室の危機的状況に変化が訪れていた。信長は、逼迫していた朝廷の財政を様々な政策や自身の援助により回復させた。一方で、天皇の権威を利用し、信長の敵対勢力に対する度重なる講和の勅命を実現させた[5]元亀元年(1570年)の朝倉義景浅井長政との戦い、天正元年(1573年)の足利義昭との戦い、天正8年(1580年)の石山本願寺との戦いにおける講和は、いずれも正親町天皇の勅命によるものである(ただし、本願寺との和議は本願寺側からの依頼という説もある)。その間の天正2年(1574年)には、信長に蘭奢待の切り取りを許可し、天正5年(1577年)には信長の最高位となる右大臣を宣下した。