神武天皇=百済王と作りたかったのは、もちろん百済。百済はゾロアスタ-神像を利用した嘘つき口先民族。


神武天皇=百済王と作りたかったのは、もちろん百済百済ゾロアスタ-神像を利用した嘘つき口先民族。
ユダヤだね、この連中は。

あと、まず宮崎県が売ってる天孫と書いたお酒
ますますあたしの神経を逆なでするものだ。

勘違いも思い込みも激しい天孫族の正体は人食いだ。

まず宮崎の日向に百済王が入った。それが天皇だとねつ造したいのは、もちろん百済だから、中大兄皇子たちはもちろん百済移民豪族だから、繋がる。この連中が古事記と日本書記を書いた。よって、百済による天皇ねつ造行為だ。

その子孫たちが日本国費にとりついてるのも明白。

日向に降り立った神武というキャラと、百済王がいたっていう話を混在させて作った話。

それが歴史の真実のひとつ。


百済移民の中大兄皇子=天智天皇と名乗る豪族のねつ造犯罪↓天孫降臨という単語を使う連中はあの連中だけ。天孫族と自称する連中。


日本書紀』によると、甲寅の歳、45歳のとき日向国の地高千穂宮にあった磐余彦は、兄弟や皇子を集めて「天孫降臨以来、一百七十九萬二千四百七十餘歲(179万2470余年。神道五部書のうち『倭姫命世紀』、『神祇譜伝図記』ではニニギは31万8543年、ホオリは63万7892年、ウガヤフキアエズは83万6042年の治世とされ、計は179万2477年となる。)が経ったが、未だに西辺にあり、全土を王化していない


百済は人食いシャ-マンだ覚えとけ、まず。


www.jalan.net/kankou/spt_45441ag2130015984/ - キャッシュ
2016年1月8日 - 高千穂神社十社大明神)は別称十社大明神垂仁天皇時代の創建と伝えられる。毎年 旧暦12月3日に、神楽の始まりとされる笹ふり神楽の奉納がある。春の例祭は4月16 日で高千穂峡への浜下り神事がある。


⇒さらにブチギレだなこれ。浜下りはうちの家系の事実なんだが、それを利用してんのか??


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2015年6月23日 - 創建は1900年前にさかのぼるという高千穂神社。「高千穂皇神社」として「続日本紀」に もその名が見られる歴史ある神社だ。古来「十社(じっしゃ)大明神」、「十社宮」などと 呼ばれてきたが、明治4年1871年)に「三田井神社」、更に明治28 ...

⇒あと三田井神社っていうのは三井神社のカモフラだろ。三井寺の三井。


ほんで江戸時代あたりにもたくさん文献は調べられているはずで、そんで月岡芳年が書いたってことは、意味がある。


あたしが南朝の子供で調べてるなかでのキ-ワ-ドが出てくる。



3月、河内国に入って、4月に龍田へ進軍するが道が険阻で先へ進めず、東に軍を向けて生駒山を経て中州へ入ろうとした

磐余彦は日の神の子孫の自分が日に向かって(東へ)戦うことは天の意思に逆らうことだと悟り兵を返した
←これは天孫族の行動ではありませんから。天孫族は神に逆らう民族ですから。

東征がはかばかしくないことを憂えた天照大御神武甕槌神と相談して、霊剣(布都御魂)を熊野の住民の高倉下に授け、高倉下はこの剣を磐余彦に献上した。剣を手にすると軍衆は起き上がり、進軍を再開した。だが、山路険絶にして苦難を極めた。そこで、天照大御神八咫烏を送り教導となした。八咫烏に案内されて、莵田の地に入った。
莵田ってウダと読む。

磐余彦は軽兵を率いて吉野の地を巡り、住人達はみな従った。
南朝吉野朝廷あったとされる吉野

12月、長髄彦と遂に決戦となった。連戦するが勝てず、天が曇り、雹が降ってきた。そこへ鵄(とび)があらわれ、磐余彦の弓の先にとまった。すると電撃のごとき金色の煌きが発し、長髄彦の軍は混乱し、そこへ磐余彦の軍が攻めかかった。饒速日命長髄彦を殺して降伏した。
←鳶・つうか鷹

神武天皇が即位したという辛酉の歳は、そのまま換算すると紀元前660年であり、同時に弥生時代早期にあたる。

それでも早くから、初期の天皇が異常に長命であることや、紀年が古すぎることに疑問を持つ者はいた。たとえば明治の歴史学者那珂通世は1897年、「上世年紀考」で『日本書紀』の記述を批判して、「記紀の紀年は、古代中国由来の、「辛酉」の年に天命が始まり、王朝が代わり、同時に正しい大改革も行われるとする「辛酉革命説」に基づく記紀編者の創作であろう」と論考した。その上で「那珂は、推古天皇治世の最も輝かしい事跡が601年の辛酉にあったことから、その前回の辛酉、つまり紀元601年からさらに1260年遡った紀元前660年あたりを神武即位年にしたのだろう」と推測した。
←いつか調べて書いてる。中国では倍計算してるとこがある。

大正期になるとさらに記紀への批判は過激化し、津田左右吉記紀の成立過程に関して本格的な文献批判を行い、神話学民俗学の成果を援用しつつ、「神武天皇弥生時代の何らかの事実を反映したものではなく、主として皇室による日本の統治に対して『正統性』を付与する意図をもって編纂された日本神話の一部として理解すべきである」と断じた。このため津田は「皇室の尊厳を冒涜した」として出版法違反で起訴され、有罪判決を受けた(津田事件)。
←皇室産業やろうとしてるんじゃないか??と危惧した人を処分した大正天皇サイドはもちろん百済

神武天皇の「モデル」とされた人物としては、学術上、実在の可能性が認められる初めての天皇とされる崇神天皇を筆頭に、応神天皇継体天皇、さらには記紀編纂時期の天皇である天武天皇などが指摘されている。

なおギネスブックでは神武天皇の伝承を元に、日本の皇室を世界最古の王朝としているが、「現実的には4世紀」としている。

都は畝傍橿原宮(うねびのかしはらのみや、奈良県橿原市畝傍町の橿原神宮が伝承地)である。『古事記』に「畝火之白檮原宮(うねびのかしはらのみや)」、『万葉集』に「可之波良能宇禰備乃宮(かしはらのうねびのみや)」とある。
「橿原」の地名が早く失われたために宮跡は永らく不明であったが、江戸時代以来、多くの史家が「畝傍山東南橿原地」の記述を基に口碑や古書の蒐集を行っており、その成果は蓄積されていった。幕末から明治には、天皇陵の治定をきっかけに在野からも聖蹟顕彰の機運が高まり、明治21年(1888年)2月に奈良県県会議員の西内成郷内務大臣山縣有朋に対し、宮跡保存を建言した(当初の目的は建碑のみ)。翌年に明治天皇の勅許が下り、県が「高畠」と呼ばれる橿原宮跡(の推定地、現在の外拝殿前広場)を買収。京都御所内侍所を賜って本殿神嘉殿を賜って拝殿(現在の神楽殿)と成し、橿原神社明治23年1890年)に神宮号宣下、官幣大社)が創建された。
明治天皇の時で建碑のみ。これが南朝サイドの考え方であれば、その程度の場所であり、その程度のもの



これ、ペルシアが百済を連れてきたんじゃないかって前に書いた事あるはずだけど、この時の神武がペルシアの有力者ならば、この事象は実際あったんでしょ。その付随でついてきた百済の豪族が、ペルシアに成り済ましして神になったつもりで古事記や日本書記を書かせた??ありえる・・・
ペルシアというかバビロニアか??
とにかく百済は有力者の偉功を自分らの血統にかぶせた愚か者かっぱらい民族なのは確定してる。

だとしたらバビロンの解読はあたしに出来るかもしんない??





金鵄(きんし)は、『日本書紀』に登場する金色
日本書紀』の記述では、初代天皇となる神武天皇長髄彦と戦っている際に、金色の霊鵄が天皇の弓に止まると、その体から発する光で長髄彦の軍兵たちの目がくらみ、天皇軍が勝利することができたとされる。この霊鵄を指して「金鵄」と呼ぶ。神武東征の際、熊野から大和天皇の軍を道案内した八咫烏と混同、あるいは同視されることが多い。
なお、大錦旛のうち霊鵄形大錦旛には金鵄が刺繍されている。
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大辞林 第三版 - 鳶・鴟・の用語解説 - ① タカ目タカ科の鳥。全長約60センチメートル で暗褐色。尾の形がタカの尾としては珍しく凹形。全国の低山や海岸などに生息し, 動物や魚の死骸などを食べる。ピーヒョロロと鳴きながら輪を描いて滑翔(かつしよう)。