つーか摂津源氏は百済系なんで、あたしの血 河内源氏系とは戦になるね。
寒河江に大江という地区があったのは、このせいか。
あと大江氏は大江から寒河江に姓を変えている。
多田 仁綱(ただ のりつな、生年不詳 - 天福2年6月14日(1234年7月11日))は、鎌倉時代初期の武士。娘は大江広元室。大江親広の外祖父にあたる。大江氏の系図である『安中坊系譜』によれば摂津国多田郷吉川村の出身で、源満仲の弟源満成の長男、左近将監満信の後胤であるという。
生涯[編集]
文治5年(1189年)に大江広元が出羽国寒河江荘の地頭に任じられた際、広元の目代として寒河江に下向し同荘本楯(現在の山形県寒河江市本楯)、次いで吉川(同西村山郡西川町大字吉川)に居館を構えて統治にあたった。その後、承久の乱で京方に与して敗れた孫の親広が寒河江に落ち延びると、これを吉川の館に匿い保護したとされる。
嘉禄元年(1225年)に広元が死去すると、父の死を悼んだ親広は吉川の館内に阿弥陀堂を建立し広元の遺骨を源満仲の念持仏と共に祀ったとされ、仁綱も間もなく出家して正阿源宥と号し、この堂の別当を務めたという。
大江親広←妻に北条義時の娘
戦後は行方をくらましたが、祖父の多田仁綱が目代を務める出羽国寒河江荘に隠棲していたと言われている。また、乱後に離別させられた竹殿は、後に通親の子・土御門定通の側室となっており、定通の甥にあたる後嵯峨天皇の即位と深く関わることになる。
長井時広←妻に北条時房の娘
毛利季光←妻に三浦義村の娘
毛利氏の祖