瓦を割ってきました


                 うそです。                 

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うちでいた安積の場所は いずれ特定できるだろうか・・・・

自分としては いつだかまわった城跡のとこだと思うんだけどなぁ

あそこの高台から寺が見えて 田んぼや土地風景がよく見えたから。

うねめの近くんとこ・・。

大波城跡の土地の形成が山の高台で当時の仲間だったとすると

あの造形ラインが平安後期なのは確定してんだ。

そーすると、あの見下ろした風景を思い出して比べると

あのうねめ公園の近くの城跡の造形も平安後期。

自然山であまり大きくない山で、かつ噴火のない山。

あとは水事情と古道の状態

物資運搬の道がいまだに残ってるのが多いんだから。

平地では武家としては屋敷だもんな 平地では城ではない。

関西方面は知らんが ここらは山を使って城を建てた。

勾配はそんなに急だと行き来が大変でかつ輸送がひどい。

山の斜面の勾配角度もゆるすぎず、きつすぎず。

あと山が大きすぎると守備範囲で人員がその分必要になるから

山体じたいが、あんまり広がりすぎてない状態のとこを使ってたはず。

あれ あと歴史研究家だという小林勇一 これあたしんちへ人権侵害作った

犯人の一人だから。

あと加担してるのは福島大学名誉教授 小林清治と

捏造の相馬藩記録 奥相志の編集者もデタラメ。

あと伊勢もデタラメならば、霊山のこの冊子は捏造含んでる。

うちのじいちゃん死んだ後に、こんな捏造行為やったんだから

誰が責任とるんだ 霊山神社

即位して世話役やってたじいちゃん死んだのが昭和4か7年あたり。

この冊子できたのが昭和10年

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中身↓ 捏造行為は青森浪岡にこじつけて繋げたことだ。

安積にいたのはうちなんだよ。鬼風の墓管理してるとか嘘ついてた

只野ってヤツは関係ないから。

んでなきゃうちの家系から2人も即位してねーだろうが!

ある意味霊山神社宮司も加害者。

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多田野美濃守源辰って名前まで書いてあるのか

これがなんであたしんちにあるのか 

まず鹿島で詐称してた只野・唯野っていう人間がいる。

それが鬼風の墓の管理してるとか 子孫だとか詐称してた連中。

その鬼風の子孫とか詐称してる連中が鬼風の墓参りをしてた形跡は

1名ぐらい 推測だと。

あとうちで2名は即位の書類出てきてるけど、それ以前のものがあれば

まだ即位した人間が出てくるかもしれない。

これ なんでこんな事したのや??


うちのものは他人が親戚語って管理してたり、過去のものを奪われたり

うちで何年 こんな事されてきてるか 理解してんの??

それに後始末とってもらうってあたしが言ってるのはそういう事。

小林勇一のブログや書籍に真実はなく、あのブログはあたしをさらに怒らせた。

よくわかるでしょ。

伊勢北畠が根回しして青森浪岡に無理やりこじつけたか??

そうだと思ってるよ 金で。

だってこの本の中身も伊勢って単語がかなり出てくるし。

しかしあたしは、伊勢北畠の初代 顕能の出目がまず何だかいったい

わからなくて、そこから始まってるのが伊勢北畠だから。

一説には親房の養子とも、親房の子とも色々言われてるがそれが伊勢国司を

やったとされる書籍はあるものの、果たしてコイツ誰??と疑わしい

のに、その伊勢北畠は途中から織田信長の子供が入ってるわけで

伊勢北畠はつまり織田なわけだよ。

あたしはいつか、顕能は村上天皇系の子供だろって書いてるんだ。

だとしたら、村上天皇の子を養子に入れて伊勢国司させてた感じだぜ??

顕家みたいに体張って戦したわけでもあるまいし・・・

その逃げっぷり具合も天皇系貴族のやりそうなことで。

顕家は状況が不利になったとき、だったらこのまま霊山に篭るって

言ってたんだろうけど、それはまぁ わかる。

あと 今 思ったんだけど、うちのじいちゃんは江戸時代ですでに

うちの家系の事を調べてるんだ。

その最初 即位してるほうの吉左衛門の時 安養寺が焼失し

過去帖から何から、なくなったと言われてきてるようだ。

しかし安養寺の2回目の火災は江戸前期。

うちの吉左衛門の写真からして幕末。

つまり、吉左衛門という名を何度か 幕末に至るまでの間に使ってる。

あたしの持ってる吉左衛門の写真からして、孝明天皇の時代あたりだ。

つまり、あたしんちの吉左衛門は何代目かの吉左衛門って事。

その幕末頃にきっちり即位のものがある。

過去帖関係がない 安養寺の2回目で江戸前期に焼失ならば

この写真の吉左衛門のものは、焼失してない事になる。

しかし、その吉左衛門に関するものがほとんど残されてない。

これ 徳川幕府か 朝廷で うちに来てあらかた 持っていったんだろ。

そう 昨日わかった。吉左衛門の時に焼失したと言われてきたって。



あたしんちに何年 こんな事してきたか わかってもらわないといけないし

相馬藩に金なんか 何で貸さなきゃならん

返しもしないで伯爵語ってきたんだぞ その連中は。



そして そーいう事をあたしの時にまで持ち越しして生きてきたんだ。

やり逃げで済ませられては困る。



あと この流れを考えるに、顕家の第二子 男子 顕成が京都に行く前は

うちにいて、京都とここで行ったりきたりして血統は混ざってたものの

それらを京都で管理してたんじゃないのか??



北畠ってそもそも村上天皇からの支流源氏だから。

あと、吉左衛門のなんやかんや もし幕府か朝廷でなかったら

持ち出して消えたのは鬼風だ。

そしてこの鬼風は京都生まれって「相馬の偉人」って本に書いてあるから。

そもそも子供が少ないからと言って、なぜ鬼風をうちに入れなきゃ

ならん??  放浪旅で門徒7~8人も連れて 金がなきゃ北海道やら

九州やら 行けないでしょ まず。



なぜ 鹿島では、鬼風は優秀な俳人だとか 嫁はすごく立派だとか

そんなことばかり書いて、その道楽人生の金の調達に触れない????



その金がうちの金だとさいさん書いてるだろ あたしが。

うちの稼ぎと、国費つまり当時の幕府の金が鬼風に流れてると

子孫のあたしがはっきりと告発するよ。

そして鬼風が養子にでもならなかったら うちの古い墓地に鬼風の墓

なんてないでしょ まず。



昔から俳句人の墓だと、しかしうちには関係ないと言われてきたんだ。

しかし、調べるほどに鬼風が生きた生涯は金にならない道楽のようなもの

しかも、弟子まがいの7~8人たずさえて。



そんな事できるのは、すさまじい金持ちでなきゃできないでしょ。

もちろん 江戸の頃なんかはすさまじい富豪だったと言われてきてるし。



それがなんで、金借りた連中が嘘ついて いつまでもうちのものを手つけたり

影でクソミソ 嘘ばっか語られなきゃならんのか???

とあたしは書いてるんだ。


ほんでついでに書くと、この流れは 古事記・日本書記と一緒で

朝廷が管理するとか語ってマリ蹴りで遊んできた公家たちが

書面では北朝天皇筋の人間が即位した事に作って

実質 江戸幕府時代 天皇やってたのはあたしんちなんじゃねーの??

吉左衛門だけ、ぽっと即位できるとも思わんし。

しかし、あきらかに即位で、しかも当時では金持ちでVIPしか撮れない

だろう写真がある。幕末直前 江戸末期では写真はまだ使われてないんだろう。


そしたら あたしんちの大事なものは京都あたりのどっかで保管してる

事になんだ。

ほんでさんざん 相馬藩みたいなとこにタカられ 一向宗移民に

タカられ 罵られ

何百年と、あたしんちを潰し 宮までぶっ壊させた事になるんだ。

あと、万が一の可能性として最後の吉左衛門の時に ほんとに過去帖が

焼失してるならば、その舞台は鹿島ではなく京都だ。

今 ウィキみたら 合致した 火災。

寛文


寛文(かんぶん)は、日本元号の一つ。万治の後、延宝の前。1661年から1672年までの期間を指す。この時代の天皇後西天皇霊元天皇江戸幕府将軍は徳川家綱

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寛文期におきた出来事[編集]




徳川 家綱(とくがわ いえつな)は、江戸幕府の第4代将軍である(在職:慶安4年(1651年) - 延宝8年(1680年))。
時代
江戸時代前期


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