これでダキアマと読むんだ??
この枳っていう字
枳風の枳だな
ここのエリアの人間は鬼風って書いてキフウと使ってたようだが。
ほんで密教な
あと枳風って芸名だから
つーか ここの連中が呼んでる鬼風ってほんとに枳風か??
今とっさに、別人が売名で同じ名を名乗ってたんじゃないか??とも思ったんだが。
放火に泥棒に窃盗 そういう資質なんだから。それを隠して生きてただけ。
その毎度盗まれたり被害にあうのがうち
ここの古い人間たちはそれを隠して何十年と生きてる連中だ。
あたしんちに加害してんの はっきりしてんの
泥棒なの ほんとーに。
つーことが土台にあって、こいつら うちの過去帖窃盗してな。
うちに養子で入ったとされてる京都生まれの枳風を利用してたんじゃねーのか??
あの斎藤笹舟っていう西山の人間は本に京都生まれだったようだと書いてるんだぞ??
なのに、御子神社では鹿島の呉服屋で生まれたって石碑に書いてるんだよ。
これって、うちの人間の過去帖窃盗して売名したい相馬一族の誰かが
鬼風という当て字を使って、うちの家系の枳風をパクり売名してたんじゃねーのか??
中世[編集]
中世になると、天皇の即位灌頂において荼枳尼天の真言を唱えるようになり、この儀礼で金と銀の荼枳尼天(辰狐)の像を左右に祀るという文献も存在する[15]。また、平清盛や後醍醐天皇の護持僧・文観などが荼枳尼天の修法を行っていたといわれ、『源平盛衰記』には清盛が狩りの途中で荼枳尼天(貴狐天皇)と出会い、この修法を行うか迷う場面が記されている[16]。ただし、『源平盛衰記』はあくまでも後世に書かれた文学作品であり、清盛が実際に荼枳尼天の修法を行っていたとする根拠はない。
この尊天は祀るのが非常に難しく、一度祀ると自分の命と引きかえに最後までその信仰を受持することが必須とされ、もしその約束を破ると、その修法を止めた途端に没落する、あるいは災禍がもたらされるとも考えられていた。したがって、これは外法として考えられることもある忌まれる信仰でもあった。荼枳尼天の修法を外法と呼んだ例は中世文学に見られ、『平家物語』には「かの外法行ひける聖を追ひ出さんとす」、『源平盛衰記』には「実や外法成就の者は」、『太平記』には「外法成就の人の有けるに」との記述がある[17]。
戦国[編集]
戦国時代には、各地の武将が城鎮守稲荷として荼枳尼天を祀るようになる。武将たちの生命のかかった城に祀られる稲荷は、怨敵退散を祈願し闘戦に勝利するため荼枳尼天が大部分だったと考えられている[18]。現在でも、久保田城跡(秋田県)、小諸城跡〈長野県)、浜松城跡(静岡県)など、城跡で稲荷社の祭祀が続けられる所は少なくない[要出典]。