さて この4名 確実にうちの加害者だな。


   枳風はうちの人 ほんで墓も  枳風の墓

 ほんで相馬藩が売りまくった人間は鬼風と書いて同じ読みキフウ

 ほんで京都の俳句家とされているのがこの本

 もちろんうちでは俳句やってた人間がいてキフウだと、芭蕉の弟子と一緒で

 芭蕉庵に出資もしてたとされてた事からそれも鬼風と一緒

 問題は芭蕉っていうのは江戸前期 時期にして枳風は江戸中期

 コイツら相馬藩はうちが豪商だと知っている。うちの家系も豪商だとは

 聞いていたものの、ろうそくやだとは言われてなかった。

 それはこの本書いたサイドにいる連中、つまり相馬藩がすべてうちのものを

 抹消してたからだ。

 こんな事される筋合いないのに、ここに生きてる連中はこういうことしてきた

 のを口裏あわせして隠してきた。この本が出てこなきゃ探る手段が足りない

 状態。鹿島の近隣で知ってたのはうちに埋蔵金伝説があった話ぐらい。

 たぶん京都でろうそく作ってたんだろうね。それを京都ってどこかの港で

 積み込みして烏崎まで入れて、烏崎から東北エリアは拡大販売してたと思われる。

 これ警察クラスだったら、あたしが事実関係出してるだけで

 いかにここの連中やってきたことが酷いかわかるだろう。

 別に烏崎でなくても良かったよな??

   そこが日吉神社のとこ 北畠顕成邸から一番近い入り江だったからだよ。

 この配置見たらまず、どの範囲か わかるだろう。

 それをどう輸送してたか。ろうそくだけでなく、流通物資もここにおろして

 またそこから北へ船をつけてたか??

   その船の残骸というか わかるものが残ってない。

 赤の他人相馬藩はうちの商売を私物化し、処分は自分らでやって消したか??

   うちのことなのに、なんでいちいちストーカーみたいに出てくるのか。

 虫唾が走るそのまんま。

 俳句やってた枳風は京都のろうそく製造元から男児をもらってやったのかも

 しれないが。

 この相馬の偉人という本に出てくるメンバー

 一部は全国プラプラのルンペン状態の弟子なんだよ。弟子とも言えない。

 この本に出てくるルンペンは鬼風の弟子という立場で、うちの金にぶら下がり

 放浪してたということだ。鬼風というのが他人の成りすましであっても、

 そのメンバーすべて うちの吉左衛門と文四郎が火災で逃げる時

 源辰サイドに親戚のような仲間うちと聞かされて身をよせてる。

 それが桑折と郡。

 このタカリ行為はさらに日吉神社に本尊を安置したのは桑折だとまで

 作り出した。これが日吉神社の看板になってた。

 そーなると、先祖の遺品を整理しなきゃ 日吉神社のデタラメもデタラメと

 はっきり言えなかった。

 そこまでしてきたんだ。子供に。というか何代にもわたって孫へまた孫へ。

 そんな連中を火あぶりにしても気が済まない。

 ここに出てくる末永は鹿島の呉服屋 住人は末永

 相馬の葬儀屋 末永と繋がっている。

 御子神社の石碑には鬼風は呉服屋に生まれたと刻んでいる。

 つまり合致しない。

 呉服屋に生まれた??  京都で生まれた??

   ひとんちの家系図つまり過去帖かっぱらい使ってるから辻褄合わせが

 ごちゃごちゃ。

 コイツらの本には、芭蕉庵に出資してたことは書かれてない。

 というのは、この鬼風調べしてた連中は実際のとこ 枳風をよく知らなかった

 ことになる。コイツらが本に書いてるのは、うちにいた枳風をパクって

 唯野という人物にかぶせただけ。

 本来ならば芭蕉庵に出資してるぐらい有名ならば曾良なみに有名であるはずで

 ネット上枳風については芭蕉庵に出資したことぐらいしか出てこない。

 これは、枳風のものがうちに残ってたはずで、それをこの唯野の家系に

 どういう形でか流れた。もしくは盗まれた。

 もちろんこの唯野というのもうちと関係ない。

 ただ家系的に古いため、どの代でか 出た人間かもしれないけども

 うちが継承してるものに関係がないから。

 そう この本に芭蕉庵に出資したことが書かれてない。

 それをコイツらは知らなかった。

 こいつらはうちを豪商などと言ってたんだろうが、豪商どこじゃないよ。

 南朝天皇やってたのは何人いるかわからないんだから。


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 そしたら思い出した。去年か今年 青森浪岡の家系図が京都で見つかったって 

 話。それを持ってたとこがうちの過去帖持ってる可能性もある。

 ほんで青森浪岡 北畠などと言ってきたすべて うちへ人権侵害作ってきた

 人権侵害の助長してきた行為として確定。

 もちろん 過去書いてるとおり、青森浪岡は吉左衛門の名前を系図に使ってた。

 それ 北畠顕成の最初の偽名だから。

 そして顕家の遺産がうちにある。それを継承した。

 それなのに青森浪岡では、天童丸売名まで今までしてきた。

 その売名してきたのが相馬藩の畠中。それについても過去書いたとおり。

 天童丸を売名してた連中は青森浪岡と相馬藩 そして松代のことをよく知らない

 丸森の大江。この組織で作られている。

 もちろん 相馬藩ではこの天童丸という売名をあたしのかげでコソコソと

 やっていた。ある時それを見つけたあたしは、まず天童丸が誰なのか調べた。

 そしたら可能性として顕信とあったため、須賀川天童市を調べた。

 そして須賀川で顕信は死んだ線が濃厚。あそこには貴人塚というものがあり

 とても古くて古い木の下。そこが顕信の墓としてふさわしい。木の大きさと

 宇津峯城からの移動ルートで。

 そーすると顕信は須賀川 つまり天童市には行ってない。

 しかし顕信が天童市にきたから天童丸と呼ばれたとされていて、さらに

 その墓は山寺にあると、当時記事で見つけたため山寺へ確認へいった。

 山寺では芭蕉曾良のみ。顕信が死んでたらそれなりの葬り方されてるはずで

 その気配まったくナシ。そしたらその顕信の墓山寺にアリというネット記事

 さえ検索で出てこなかった山寺で。

 そーすると天童にいたから天童丸という線はかなり薄い。

 そしたら一応北畠神社へもまわったが氏子たちが集まって作ったとされる

 その神社は天童市としては山寺の方面に近いが、宙に浮いてる。

 そしてそこの石碑は顕信と親房の両名の名は書かれていた。

 捏造で後から作られたとも考えられるような品物。

 その後だ 天童丸というペンネームで畠中が 天童丸と松代の墓はここに

 ありますと寺前の神社 発發神社紹介してたのは。

 ほんで行ったが何の関係もなし。というか顕信くらいだったらそれなりの

 葬り方をされてなきゃいけない。そこにあったのは九曜紋の社と関係ない墓石。

 あげく畠中は顕家の子は顕成で顕成は天童丸で、墓は寺前とブログに

 書いてさらに紙芝居で落城の様子を子供らに読み聞かせしている内容で

 あった。それが熊本大地震のきっかけ。

 もちろん ぷっつん。

 相馬藩と青森浪岡と丸森の大江だけなんだって 天童丸って人物作ってるのは。

 そしたら今度霊山略記ではっきりしたわけ。

 天童丸は青森鯵ケ沢城城主

 そして研究家たちからは青森浪岡の出目は昔から疑われてた。

 まさしくそのとおり。作ったものだから。

 そういう嘘を作っての売名連中は必ずとてつもなく売名拡散している。

 そうすると本まである。毎度同じパターン。

 松代の第一子は女子で顕 松代の第二子は顕成で男子 つまり長男。

 それを第一子が男子で顕成 第二子が顕 第三子が天童丸などと出してる

 記事は丸森の大江と、日吉神社の奉戴踊りの記事にしかない。

 つまりそれ出してる連中が売名と虚偽を出してたとこ。

 日吉に権現を安置したのは桑折とはっきり書いてたあの記事元は日吉の

 虚偽宮司 森か桑折

 もちろん桑折が安置したなどという話は大嘘。うちにあんのに安置もクソも

 ない。そして日吉神社のとこ そもそも顕成の城跡 屋敷跡。

 だからうちには客人がきてた 大昔から。

 その時は屋敷に置いていた権現を。

 そしてそこにいればいいものをなぜか あの若松の隣のとこへ引越し

 している。それをあたしは放火で屋敷を焼かれたと推測している。

 そして移動と同時に本尊を移動した。それをここのクソ盗賊畜生どもは

 盗んだと言いがかりをつけた。顕成遺族が顕家の遺産を持って移動したことが

 どうして持ち出したと言われる??

   これはうちの人間に対し人権侵害 うちがいたことをここの連中は隠してた。

 一番隠してたのは森伊織とその子森鎮雄だろうが。

 本尊を持ち出したでしょと御子神社で言われたのは数ヶ月前。

 つまり野馬追い関係者はあたしの代になっても、そんな言いがかりをつけて

 鹿島には居づらい環境にしてきた。

 大嘘つきもはなはだしい。

 鬼風というのはうちにいた枳風の成りすましをした連中とその仲間。

 よって、枳風の墓はもちろんうちの個人の墓。

 文化財にされてた事も、あんな資料見なきゃわからないほど、ここの連中

 はこそこそとうちのものを私物化し売名しては罵って生きてきたようだ。

 この事実関係 これを警察が見たら 黒って言うよね??

   ここの連中は黒ばっかりしかいない。