北畠六郎左衛門尉源顕輔卿は宇多熊野城主で北畠と作った犯人を特定する。これは捏造武鑑だ 霊山略記。

○前置き

霊山落城の時期

1337年8月伊勢出発

1338年6月顕家死亡 

1338年×月霊山落城で辻褄合うんだ

1337年8月に直近で妊娠したら翌年1338年出産だから ほぼぴったり

あのうちの図面は霊山落城というより顕家死亡を聞いて松代が霊山脱出の姿

のことをいい、霊山落城というタイミングとは違う



霊山脱出だ そーすると合うんだ

イメージ 1

イメージ 5


本題 奥羽官軍武鑑リストにある「正三位北畠六郎左衛門尉源顕輔卿」

北畠でこの人物は該当者ナシ

捏造してうちを殺しました犯人を全国拡散 国際裁判の舞台にたたき出してやる。


まず霊山町 教育委員会の本から↓

イメージ 2

イメージ 4


熊野堂城主は中村六郎広重 そこに黒木

そこに顕家の人間がいるわけがない 最初から

さらに相馬胤頼が熊野堂城攻め 1324年~1371年

その時期に顕家は1337年に霊山を出てる 松代と子は真野方面へ逃げてるから

熊野堂に立ち寄りしない

そしてその時期に第三子がいるはずがない

中村六郎広重による゛でっちあげ゛でかつ、売名

虚言癖は鎌倉時代以前からなんですね



さらに大江のほうでは松代は自害したと扱っておらず生きてたことを記録出してる

ために、さらに中村サイドと大江サイドの言ってることはかみ合わない



中村六郎広重の子孫が誰なのか 探す必要がある。

中村の子孫がもしかしたら 黒木か相馬か



中村の子を顕輔と称し それをその連中が語っていたら

まったく関係のない北畠の人間が出てくる計算になる。



      霊山略記編集の責任者 松浦は拷問かけて取り調べが必要です。

      まずこの顕輔は存在しません。  


イメージ 3