おい これ何だ?? 黒木氏ってうちのばあさん家系だぞ??


天正3年(1575年)6月下旬、相馬父子・座流(座留)川で敗れる[12]。盛胤は葛西氏国分氏亘理氏などの現在の宮城県の諸将と共に伊達輝宗を攻めようとしたが、諸将は旗色を変えて攻め寄せる気配を見せたため、後退を決意した。敵の鉄砲隊には自陣を乱され、大雨で川水は増し濁流が土橋を流していた。盛胤は無事に座流川南岸に辿り着くも、義胤は川へ入ろうとしたとき鎧袖を敵の熊手に掛けられ逃げられなくなった。そこへ、すでに川を渡っていた黒木対馬が馬を返して、川に飛び込んで義胤を救った。対馬相馬顕胤に討たれた黒木弾正正房の子である。その後、盛胤は自ら殿軍を務め後退した。総軍で追撃を受ければ、相馬父子の命も危なかったが、敵は追撃してこず、鉄砲も音だけで弾丸も飛んでこなかったという[13]