あと菅公はうちの部下だ。下手に利用しようとしたら とんでもない事起きるぞ。


あと よくわかってないようだから書くけど

宇多源氏っていうのは菅公と近い間柄なんだよ。

そんで宇多源氏の陣営と北畠一族 源氏は同盟関係にあったんだ。



今の天皇家って桓武平氏だから、まったく違う派閥なのが まだ わかんね??

その宇多源氏 源氏一門を多勢で乗っ取りしてきたのは桓武平氏

人食いの桓武平氏



平家というのは桓武平氏ではなく、ペルシア系平家。



壮大な歴史のロマン 源平合戦とも言えるが 今 天皇はそれで戦争中ってわけ。

殺されて首を狩られた平将門は平家で桓武平氏ではない。

桓武平氏だと捏造してきた連中が、将門の祟りを恐れて 東京に将門の首塚エリア

触れないよーにしてるだろ。



将門は平家で桓武平氏ではないので、あたしの陣営。



あたしの陣営であとわかりやすいのは三好。三好のとこで落ち武者隠したのは

平家を隠したのであって、桓武平氏を隠したのではない。

だからペルシャは三好みたいなとこ あったのを 覚えておかんと。

あと平家は青葉区の定義エリア。かわいそーに安徳天皇 あれは平家。

※たぶんこの絵だと合ってる↓ 源平合戦は平泉まで入れないとダメなんだよ

なぜかっていうと、安徳天皇がその時死んでるのとその安徳天皇の外野が

青葉区の定義に流れてるんだから。だから宮城、つまり宮城を入れた東北が

入らないと物語は語れない。あと義仲を討ったとされる源義経が、なぜ源頼朝

に追われ平泉まで逃げたのかも・・・。だから平泉も入る。

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源平合戦という名前だけで 源氏と桓武平氏をわけるのは間違いだったという事。

源平合戦は 源義仲(源氏)+中立派の平家 

VS  源頼朝(源氏だけど嫁が桓武系の勢力だから百済系勢力)+桓武平氏

これが正しい配置。子供らは覚えておけ。大事な事で教科書に載ってないから。

あと さいさん言ってるように神威=神器ではないって事。その神器持ってる設定

になってるから攻められた。安徳天皇はこの時脱出したとも言われてるだろ??

どさくさにまぎれて逃がしてると思うんだよな~

しかし、ざっと調べてると源平合戦で義仲は死んだわ ひゃっは~してるヤツが

多いのか、あたしの動きに危惧して必死に義仲悪を拡散してるのか・・・。

朝鮮人と中国人の大昔からの責任転嫁に迷惑してるとさいさん言ってるのは

ここまで調べられるあたしの血筋の運命。

あと いつだか書いた事あるけど、義仲は滋賀で源義経に討たれたとされてる話を

あたしは義経が義仲を逃がしてるんじゃないか??と言ってるんだ。

それが源頼朝義経を暗殺対象にした理由ではないか??と仮説を立ててる。

つーか義仲は八坂系だからな 嫁が。その八坂の子が 多娥丸なんだし。

義仲が源平合戦で負けた ひゃっは~の連中は 義仲が何と戦い何に泣いたか

知ってるのか??



保元の乱平治の乱においては上洛し、義朝の忠実な部将として奮戦する。義朝が滅亡した後は、関東に無事に落ち延び、その後平氏に仕え、東国における歴戦の有力武将として重用される。そのため、治承4年(1180年)に義朝の子・源頼朝が挙兵しても平氏方にとどまり、平維盛の後見役として頼朝追討に出陣する。平氏軍は富士川の戦いにおいて頼朝に大敗を喫するが、これは実盛が東国武士の勇猛さを説いたところ維盛以下味方の武将が過剰な恐怖心を抱いてしまい、その結果水鳥の羽音を夜襲と勘違いしてしまったことによるという。
寿永2年(1183年)、再び維盛らと木曾義仲追討のため北陸に出陣するが、加賀国篠原の戦いで敗北。味方が総崩れとなる中、覚悟を決めた実盛は老齢の身を押して一歩も引かず奮戦し、ついに義仲の部将・手塚光盛によって討ち取られた。
この際、出陣前からここを最期の地と覚悟しており、「最後こそ若々しく戦いたい」という思いから白髪の頭を黒く染めていた。そのため首実検の際にもすぐには実盛本人と分からなかったが、そのことを樋口兼光から聞いた義仲が首を付近の池にて洗わせたところ、みるみる白髪に変わったため、ついにその死が確認された。かつての命の恩人を討ち取ってしまったことを知った義仲は、人目もはばからず涙にむせんだという。


壇ノ浦の戦い(だんのうらのたたかい)は、平安時代の末期の元暦2年/寿永4年3月24日 (1185年4月25日)に長門国赤間関壇ノ浦(現在の山口県下関市) ... 寿永2年(1183年 )7月、源義仲に攻められた平氏安徳天皇三種の神器を奉...

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菅原道真は、日本の平安時代の貴族、学者、漢詩人、政治家。参議・菅原是善の三男。官位は従二位・右大臣。贈正一位太政大臣。 忠臣として名高く、宇多天皇に重用されて寛平の治を支えた一人であり、醍醐朝では右大臣にまで昇った。Wikipedia