ざわざわする 金も戸籍も返しもしない人殺しに便乗する天童と里見

こいつらの出目がおかしいから とんでもなく迷惑こうむってきたというのに

今更出でくるこのボケナスども

やっぱ清和源氏 選挙終わったら安倍普三リンチ刑確定だけど お前ら邪魔だ

前に2014年 2015年あたりか?? 天童丸捜索してた時にはなかった記事と文献

あの時 天童丸の墓は山寺にあるという記事しかヒットしなかった

これは現実

あの頃 山寺に行ってるの あのyoutubeに2014年山寺の映像あがったから

この道路通ったわってブログに書いてる

あの寺 神社 あのエリアぐるっとまわって どこに顕信 天童丸の墓石あんのか

と検索かけたら出てこない その発端となったブログさえ。

あったのは清和天皇五輪塔みたいなもの

そんであったのは松尾芭蕉曽良の像



天童丸の事調べまくった そん時 すんげーブログにもがちゃがちゃ書いてる

なんなんだと!

そして霊山記から何から まぁ見たわ見たわ



新田は毛野派生だろ??  百済難民助けるって人を出した倭国の毛野関係じゃないかと

あたしは思うんだが、どっちにしろそうでなくても清和源氏と斯波というだけで

あたしんちの仇なんだわ

そこに里見が入ってる 



逸話[編集]


そして今更なんだ すべてにおいて

天童丸はいました 北畠の子ですって

もう試合は終わったの あたしはその試合に数年要した

その後になって こーいうの出すのは 締め切り終わった試験用紙と一緒

話にならない それが天童氏



こーいう立ち回りするヤツらのせいで多大な迷惑こうむってる


北畠 顕信(きたばたけ あきのぶ)は、南北朝時代の公卿。北畠親房の次男。北畠顕家の弟。左近衛少将に任ぜられ、春日少将と称した。また土御門入道と号す。南朝従一位右大臣に任ぜられたともされる。

生涯[編集]

延元元年/建武3年(1336年)に伊勢国において挙兵し、後醍醐天皇の遷幸を援助、伊勢国司に任官される。『太平記』には、兄・顕家に随伴して上洛し、美濃青野原や山城男山北朝軍と兵刃を交えた、と記述されているが、これは春日顕国の事跡との混同とされる。
延元3年/暦応元年(1338年)兄の死後、鎮守府将軍に任命され、後醍醐天皇皇子の義良親王宗良親王に供奉して父親房と共に陸奥国に赴こうとしたが、途中で暴風にあって頓挫し吉野に戻る。翌年、再び陸奥に向かい、国府多賀城の攻略を試みる。多賀城を一時占領するが、結局北朝方の反撃を受け失敗する。霊山城を拠点に、周辺豪族を糾合して活動する。
正平2年/貞和3年(1347年)霊山城が落城。顕信は滴石城岩手県雫石町)に退いたのち出羽国に退却する。正平6年/観応2年(1351年観応の擾乱の影響により奥州管領同士の争いが起こると南朝側は勢いを盛り返し、羽州国府寺や阿谷の合戦などで吉良軍を次々と破り、ついには11月広瀬川の戦いで北朝軍を総崩れにさせた。この結果多賀城奪還に成功[1]するが、翌年吉良貞家により多賀城を追われてしまう。顕信と守永親王宇津峰城福島県)に移るが、吉良貞家の攻撃によって正平8年/文和2年5月(1353年)ここも落城。出羽国へ逃れたとされる。正平13年/延文3年(1358年足利尊氏が没すると南朝の活動が全国的に活発になるが、顕信は同年8月鳥海山大物忌神社南朝復興と出羽国静謐を祈願した寄進書を納めている[2]事から、この時期出羽にいたと思われる。これ以後の生死は明らかでないが、後世に残された発給文書から1362年頃までは陸奥で活動を続けていたと推定される。
それ以降の足跡については、吉野に帰還して右大臣を務めたとも、九州に下向し懐良親王を補佐したとも言われる。また、津軽に落ち延びて浪岡氏の祖となった説もある。

あたし霊山略記も事録だっけ あれもあっけどさ

だからこのウィキで時系列出して見るとさ

顕信 

仮で1320年 0才 生まれ
  1338年 18才 鎮守府将軍
  1347年 27才   霊山落城
  1351年 31才 奥州管領で戦勃発
  1353年 33才 宇津峯城落城

出羽に何度か潜伏
この流れ

そんで寒河江は大江だから 月山ダムのあるあの方面 寺

ああいうとこにも行ってたな


足利 斯波 清和源氏 新田氏 顕信を食い物にしてきたな お前ら

薄汚いから 多田野と一緒

たぶん33才まではこの時系列で出せるって事はこの戦の神輿状態が浪岡だな

神事とはほぼ遠い 戦武将人生である以上 その血が次に残すのは武家




天童氏(てんどうし)は、出羽の有力国人天童城(現在の山形県天童市)を本拠とした。もともとは清和源氏新田氏里見氏の流れを汲む家系であったが、南北朝時代足利氏斯波氏一門の最上氏から養子を迎え、里見の家系を継承しながら、足利氏、斯波氏の流れを汲む存在となった。戦国時代末期には村山地方北部に一大勢力を築いた。通字は「頼」だが、初期には里見氏と同じく「義」の字を使用した。