呉討伐要請はアフリカにも欧州にも飛ぶ

呉は中華
 
なんでアフリカまで絡むか教えてやる
 
アフリカで象狩りで金儲けしてたの 中華だ
何でわかるか教えるか?
 
象牙を使うな!ってのはイギリスからの通達だった
かれこれ数十年出てる?
 
それをイギリスは日本に向けて言ってた 象牙は主に印鑑などで重宝ですよと
売られてたんだ昔。高級ですよとなれば、バブル期 日本じゃ象牙印鑑を欲した
人もいただろう。それを商売にするのは、日本人と同化してた中華しかねーんだよ。
んで去年あたりか?またイギリスで象牙駄目!ってお触れだしたよな?
実はあの後 象牙印鑑のチラシを自分は遭遇してしまったのね。
当時書いてるけど、ローカル新聞社の つまり福島民報のテレビ欄の下あたりに
でかく載ってた 印鑑広告。しかも象牙ありで。しかもインチキ皇室も使ってるうんちゃらって書いてあった。ヨシキターとばかりに自分はブログに書いた。
その業者は山梨だった。
こっちで言う 里に熊が降りてきて襲われたんで射殺したとかなら、仕方ないかとなるが、意図的に象牙が欲しくて象を殺してるだけならば、これはアフリカにも問いたいところだ。なので、ここに出す。アフリカで象狩りしてるの中国人だとよく出てた。自分はそいつらが中華だと思ってるので、アフリカで騙されてるんじゃないか?という視点も書いておく。
中華はとく二重国籍持ってるのが多い。そのため、世界あちこちに散らばって活動してるフシがある。
ちなみに、中国共産党二重国籍に取締強化してる 去年あたりから?
話題振ってなかっただけで、まあ見てるよ 中国も。
 
次にゆうべ出したアルバニア
直感で中華の嫌がらせと感じた。もちろん アルバニアに対して。
共産党に肩入れしたって事で。しかも国連からみとかさ。
んで、それを合致させながら、アルバニアはこの前調べた時「ねずみ講」と出てきたものの、中華や百済に背乗りされてた日本が、ねずみ講ひどいのは話題になった事ねーのか?と。
なんで合致するかって、中華の販売方法や営業がねずみ講臭いんだよ。
販売方法と断定できねーから そいつらの言語使いまわしも見てるけど
やっぱ この蒋介石と同じで、ハッタリ大口は日常茶飯事だな
 
自分すぐカッとなるから、そいつら見つけると、ジワジワくるんだ。
あたしが後嫌いな異常フカシもそいつら よくやってるな自演でw
まるでチンピラが大口叩いてるかのようなスタンス そいつらの特徴。
あと、常に借金取りから逃げてるようなスタンスも特徴。
あと、逆に裕福になりすぎてちょーぜつ態度デカイヤツも特徴。
あとチンピラくせーから、嘘ばっか吐いてたりもする 小馬鹿くさい特徴。
 
あと、喧嘩に弱いから常にやり逃げするのも特徴(蒋介石がそうみたいでそっくり)
 
喧嘩の強さ 自分世界一だからな
他所では譲歩によって無難になってるとこが増えた。
 
そいつらは後、ネタをぶっこんで逃げていく匿名名無しが多い。
そいつらは後、安っぽい正義感を吐いてよく逃げてる。
そいつらはよく、自由とかって言葉に喜びを感じる 中身ナシでw
そいつらはよく、人を見下して騒ぎまくるのが生きがいらしい
そいつらがアメリカ最強と言ってアメリカ軍人の媚び媚びで、よくジャップと連呼してる模様
 
この流れからアメリカのHAARP宣伝部隊が一部は中華とわかる
HAARPが何の装置かもわからない脳みその無い連中と5ちゃんでは認知されてる
 
わりと日本人は空気読める人もいて、またコイツらだとわかるとムシするんだが
そいつらは、とにかくしつこく、あげくには自演までして最後名無しのまんま
トンズラするというスタンス それが毎日ならば、ネットゲームとダッチワイフしか
相手がない模様
つまり女であれば男好き 男であれば女好き 好色だということ。
 
これでもかというぐらいにコケ落としてやる。なんせアフリカまで手配だから詳しく書かないと。
 
んでな そいつらの言い分であたしが相手いなくてただパソコンやスマホ片手に
毎日過ごしてる寂しい嫌味な人だとか言うだろうか?と思うので、ここで出しておこう。自分が過去やってきた内容はその時その時の自分の時間内での大事業であって、忙しいのは見てわかるだろう んで完全燃焼で寝るだけっていうのは、それだけの対価が条件だったからだ。安倍らに提示してた事だ。あの野郎ら すっとぼけて6,7年経つ?もっと?
 
中華馬鹿よりはるかに結果を出し使った時間もものすごい。
中途で終わって逃げての繰り返し歴史しかない連中とは まったく次元が違う。
 
アルバニアが昔ほどねずみ講風ではないというなら、中華の復讐が終わった後からだろうと推測。中華はアルバニア共産党に罪がかぶるよう悪さをしまくったと仮定できる。
 
その思惑が当たってると思うのも、以下ウィキ参考
そいつら昔から工作ばっかり
人と人の揉め事工作が仕事であり血筋のような内容↓
中華ボンクラは共産党と揉める前の出来事で 中国がザーサイを日本で栽培
できるようにしてくれた事 ご存知ない?記憶障害激しすぎてわからんか?
これは当時 キンペーの配慮。
 
共産党が中華を切り離したので、こっちはせーせーと叩き放題
 
その人と人の間に入って工作する習慣は産まれながら孫氏の兵法だとか
孫文尊敬だとか言ってきた中華の特徴なんだよー
 
あとは孫権の歴史見たって寝返っての曹操火だるまだったじゃないかー
 
少ない兵で曹操軍を敗戦に持ち込んだ英雄?
まあ司馬遷自体 半分信用できないが、船炎上あたりは起きたんだろう。
自分 それ見て、兵隊はやたら動かすもんじゃねーなと学習した。
顕家の戦だってそーだ。
 
頭領の意思が意思疎通されて協調されてなきゃ兵はうまく動かん。
またその仲間うちが全部大丈夫だとは限らん。
 
本物の風林火山見せてやるよーと豪語したが
風読めなければ いたって死ぬだけだ。
自分 足元にも時限爆弾セットすると前に書いてたじゃないかー
 
ユダヤ豪族と戦と考えた時の陣営だって まあ調べてきた。
人の間入って工作 イスラエルとかがやってきた事 中華がよくやってるわ。
 
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天皇家(インチキ) 
 
蒋 介石(しょう かいせき、繁体字:蔣介石、1887年10月31日 - 1975年4月5日)は、中華民国の政治家、軍人。第3代・第5代国民政府主席、初代中華民国総統中国国民党永久総裁。国民革命軍・中華民国国軍における最終階級は特級上将(大元帥に相当)。名は中正で、介石は字[1][注釈 1]。浙江省寧波府奉化県出身。日本・中国本土では蔣介石の呼び名で知られているが、台湾では蔣中正(チャン・チョンヂェン、蔣中正)の名称が一般的。英語ではChiang Kai-shek(チアン・カイシェック)と呼ばれる。[注釈 2]
孫文の後継者として北伐を完遂し、中華民国の統一を果たして同国の最高指導者となる。1928年から1931年と、1943年から1975年に死去するまで国家元首の地位にあった。しかし、国共内戦毛沢東率いる中国共産党に敗れて1949年より台湾に移り、その後大陸支配を回復することなく没した。
 
年譜[編集]
  • 1887年、奉化県(現寧波市奉化区)渓口鎮に生まれる。
  • 1902年、毛福梅(当時19歳)と結婚。
  • 1904年、奉化の鳳麓学堂や寧波の箭金学堂で学ぶ(1904年 - 1905年)。
  • 1906年、保定陸軍軍官学校で軍事教育を受ける。
  • 1907年(明治40年)、渡日し東京振武学校へ留学する。
  • 1909年大日本帝国陸軍に勤務。陸軍十三師団の高田野砲兵第19連隊の士官候補生( - 1911年)
  • 1910年、蒋経国誕生(1927年、毛福梅は出家、離縁する。1939年12月、日本軍の空襲で奉化県渓口鎮で死去)
  • 1911年 - 1912年、辛亥革命に参加。後に孫文に認められ、国民党内右派の代表として頭角を現す。
  • 1923年、孫文の指示により、ソ連の軍制を視察
  • 1924年広州の黄埔軍官学校校長に就任。
  • 1926年7月1日、中国国民党・北洋軍閥等に対し北伐を開始
  • 1927年(民国16年)、宋美齢と結婚。
  • 1927年、上海クーデター中国共産党を弾圧党および政府の実権を掌握する。
    • 9月に満州問題を主題とし田中義一首相と会談し、北伐(中国大陸統一)・対共戦に対する支援の見返りに満州における日本の政治、経済的な権益に関する特殊な地位を考慮すると語った[3]。
  • 1928年、政府主席となる(南京国民政府)。基本政策は反共、対日、対英米善隣外交。
  • 1931年、柳条湖事件満州事変が勃発。
  • 1932年、満州国建国。中国は国際連盟に提訴。
  • 1933年、塘沽停戦協定締結。
  • 1935年3月30日、中華民国特級上将に叙される。
  • 1936年、3月、西南旅行の途次、南京に立ち寄った松井石根大将と会談。
    • 12月、西安事件で軟禁される。この事件により対日・反共政策の見直しを迫られる。
  • 1937年(民国26年)、7月盧溝橋事件を契機に、抗日を推し進める
    • 12月、日本軍による首都南京の占領が不可避と判断し、四川省重慶へ遷都。12月7日総統蒋介石夫妻はアメリカ人パイロットの操縦するドイツ製の大型単葉機で南京を脱出した[71]。
  • 1938年、トラウトマン工作の吊り上げにより和平破綻。トラウトマン工作打ち切りで、泥沼化。
  • 1940年、桐工作で板垣征四郎汪兆銘との会談が検討されたが、蒋は出席せず。
  • 1941年、7月に日本をABCD包囲陣で経済封鎖。11月にハルノートが出される。
  • 1942年、スティルウェルが中国戦区連合国軍最高司令官・中国戦区参謀長に就任する。
  • 1943年、繆斌と対日単独講和を検討。
    • 11月、ルーズベルトの要請でカイロ会談に参加、四人の警察官構想の一員になる。
  • 1944年、日本陸軍最大の攻勢大陸打通作戦によって蒋介石の国民党軍が大打撃を受ける。
    • 10月、スティルウェルを参謀長から解任する。
  • 1945年、抗日戦争(日中戦争)に終戦毛沢東との交渉により双十協定を締結する。
  • 1946年、国共内戦に突入する。
  • 1948年、中華民国の初代総統に就任(ただし反発を受け翌年辞任)
  • 1949年、国共内戦で敗北。首都南京を脱出し、重慶などを経て、12月に成都から、息子の経国とともに飛び立ち台湾へ到着。事実上台北への遷都を強いられる。
  • 1950年3月、再び総統に就任(第五任(第5期)まで務め任期中に死去)
  • 1969年、交通事故に遭って体調を崩し、この年を境に表舞台には出なくなる。
  • 1972年、6月に肺炎にかかり一時重篤な状態になったが持ち直した。しかし、これを期に以後は公の場に姿を現す事はなくなってしまった。
  • 1975年4月5日23時50分、死去。死因は心臓麻痺とも心臓病とも言われる。87歳没。任期中死亡のため副総統の厳家淦が後任総統に昇格。
  • 2014年、功績を称え、国民党永久総裁に任じられる。
第二革命の失敗と日本への亡命[編集]
中華民国初の国会選挙を控えた1912年8月25日、孫文率いる中国同盟会を中心に各政治結社が合流して国民党が結成された。翌年3月、国民党は国会選挙に圧勝したが、独裁を志向する大総統・袁世凱は、3月20日孫文に代わって国民党の実権を握り、議院内閣制を志向していた宋教仁を暗殺した。宋の暗殺により国民党での実権を掌握した孫文は、独裁を強める袁世凱に対抗して武装蜂起を試み、「第二革命」を起こした[17]。中華民国の閣僚の地位にあった陳其美も上海に戻った。このとき蒋介石はすでに日本から帰国し奉化県渓口鎮に戻っていたが、5月には上海に赴き、陳其美の下で国民党員となっていた。「第二革命」が勃発すると、陳は上海に在って討袁軍総司令と称し、蒋介石率いる第五団に命じて蜂起を企てたが、上海市内は政府軍に押さえられており、蒋が説得に当たったものの、第五団の大勢が政府軍についてしまったため、蜂起は失敗した。陳は地下に潜伏したが、蒋介石は日本に亡命した。そして、7月に勃発した「第二革命」自体も8月には失敗に終わり、孫文も日本へ亡命した。
孫文は日本を革命の根拠地とし、革命達成のための教育機関を設置した。このうち、日本人の退役将校の支援を受けた軍事専門家の養成機関「浩然廬」の教官に蒋介石が選ばれた。しかし、1913年12月1日に開校した浩然廬であったが、翌年6月、爆弾製造の授業中に爆破事故を起こしたために、日本の官憲によって解散処分となってしまった。
1914年7月8日、孫文は議会政党であった国民党を解体し、東京において中華革命党を結成、その総理(党首)に就任した。この党は議会制を否定する「革命党」であるとともに、孫文に絶対的忠誠を尽くす集団としての性格を帯びていた[18]。蒋介石の師である陳其美は党総務部長となって党の全ての実務を取り仕切り、孫文の右腕と目されるようになった。そして蒋は陳とともに入党して孫文に絶対の忠誠を誓った。まもなく、蒋介石孫文に命じられて満州に向かい、現地の革命派軍人と交渉し、反袁世凱闘争と南方への軍事的進出を企てたが、これは情勢が許さず、不調に終わった。7月28日に第一次世界大戦が起きると、蒋介石は中国から孫文に書簡を送り、大戦によって日本が東アジアで台頭し、それが結局袁世凱政権打倒につながるとの考えを示した[19]。そして、大戦によって東三省のロシア軍がヨーロッパ戦線に出動することを見越して、東三省での革命工作に乗り出そうとしたがこれも不調に終わり、結局日本へ戻った。9月からは、孫文の命を受けて革命党員に対する宣伝活動に携わるようになった孫文は革命党員を中国に送り出し革命工作に従事させていたが、蒋介石は彼らに具体的な指令を発する職務を担ったのである。
 
1919年10月10日に中華革命党は中国国民党に改組しており、蒋介石もその党員になっている。
 
孫文は独自の軍事的基盤が脆弱で、広東軍政府は雲南・広西軍閥の唐継堯や陸栄廷らによって左右された。ことに軍政府の軍事総代表となった陸栄廷は地盤の広西に孫文の影響力が拡大するのを恐れ、孫文の追放を図るようになった[26]。孫文は彼ら軍閥への対抗手段として、蒋介石を自分の膝下に招いたのである。 
 
蒋介石は革命への情熱が先行するあまり、陳炯明を信頼するなど現実に対して正確な理解を持たない孫文に対して不満を持つようになった[33]。3月には対日外交に頼る孫文の政策を批判し、国内の団結を勧める手紙を送ったが、孫文蒋介石の諫言を受け入れなかった。 
 
ここで蒋は孫文の厚い信頼を得ることに成功した[38]。だが戦況は不利で、蒋介石孫文に香港への逃亡を進言、孫文と蒋はイギリスの軍艦に移って香港に向かい、そこから上海へ移った。
蒋介石は再び上海で無為の生活を送ることになった。ここでの生活では陳炯明の裏切りを非難する手紙を孫文の側近に送るか、証券取引所に出入りして投機に熱中するかであった[39]。こういった生活は1923年3月まで続いた。
 
こうしたなか、北伐軍は3月22日に上海、24日に南京に入城した。4月12日、蒋介石は何千に及ぶ共産主義者の容疑を持つ者たちへの迅速な攻撃を開始(上海クーデター)。彼は胡漢民を含む保守の同志の支持を受けて国民政府を南京に設立した。国民党から共産主義者は排除、ソビエトからの顧問は追放され、このことが国共内戦開始につながる。汪兆銘の国民政府(武漢政府)は大衆に支持されず、軍事的にも弱体であり、まもなく蒋介石と地元広西の軍閥・李宗仁に取って代わられ、結局汪兆銘と彼の左派グループは蒋介石に降伏し、南京政府に参加した。 
 
蒋介石は国民革命軍を4つの集団軍に再編し、北伐を再開した。北伐軍は1928年6月8日、北京に入城し、北京政府打倒という孫文の遺志を果たした。北京に到達すると蒋介石孫文の遺体に敬意を表し、首都南京に運ばせ、壮大な霊廟(中山陵)で祭った。そして12月には満州軍閥・張学良が蒋介石政府に忠誠を誓約し、中国の再統一は成った。
蒋介石は、孫文の後継者としての彼自身の立場を確立するために演出を行った。1927年12月1日、蒋介石浙江財閥の宋嘉樹(宋耀如、チャーリー宋)の娘・宋美齢孫文の妻・宋慶齢の妹)と上海で結婚し、孫文の義理の兄弟となった。蒋介石は以前にも宋慶齢に求婚したが即座に断られている[87]。
 
第二次上海事変蒋介石は日本租界を総攻撃したことで全面戦争に突入し、日本軍の侵攻についても「日本軍は軽い皮膚病、共産党は重い内臓疾患」と例え、当初は国共内戦での勝利を優先していた。
 
南京戦の際に『倭寇(日本軍)は南京であくなき惨殺と姦淫をくり広げている。野獣にも似たこの暴行は、もとより彼ら自身の滅亡を早めるものである。それにしても同胞の痛苦はその極に達しているのだ』と1938年1月22日の日記に記している[92]。 
 
さらに1971年11月には中華民国の国連追放を提起した「アルバニア決議」が可決 
 
 
明治天皇を尊敬しており、戦後も総統代理として蒋経国明治神宮公式参拝させている[112]。 
 
2008年に平沼赳夫は「蒋介石が日本の天皇制を守ってくれた」と擁護し、「日本と中華民国の国交が断絶した後も、日本の政治家が中華民国を訪れた時は蒋介石の墓に参るのが礼儀であったが近年は行われなくなった」との批判を行った[117]。2009年には森喜朗が、金美齢の面前で「日本が今日あるのは蒋介石のおかげであり、日本人は蒋介石に感謝しなくてはならない」とのスピーチを行った[118]。 
 
一方、渡辺望[誰?]は、蒋介石は日記に昭和天皇を「倭王」と軽蔑表現するなど精神的にはまったくの反日・侮日家であり、その反日的姿勢は南京事件などで日本をジェノサイド国家にでっちあげようとしたことで明白だという[119]。また終戦時の「以徳報怨」演説にみられる親日的態度も、アメリカに見捨てられつつあった蒋介石が敗戦日本を「新たな同盟国」として抱き込むための苦し紛れの策略であったとしている[119]。 
 
蒋介石頌徳碑 - 横浜市内の伊勢山皇大神宮内生誕100年記念に建立、傍に 統一教会幹部の助野健太郎による由緒書きがある。 
 
胸像 - 千葉県市川市中山の法華経寺境内に、1972年岸信介佐藤栄作兄弟と親しかった132世武井日進上人が建立。