はい見つけた 会津出身の田母神 かんでるって事は・・・
動かした連中による末端への責任転嫁というわけだな
まるっきり アンタたちのやってきた事は奴隷と人身売買と借金破産の連続だぞ??
貴様らの過去の行い 松平雄平の311直後のスピーディー放置による
避難民の先にフクイチ爆発風が流れてた事実の隠蔽と、避難民を被ばくに晒さないように対処すべき福島県庁の長という立場上の責任放棄 未解決!
松平雄平からさかのぼると、松平勇雄時にあったフクイチの誘致扇動。
ようは、田母神じいさんよ 貴様らがどんだけバカなのか学習能力ないのか
どういうことなんだよって話なんだが、この流れで書くとさ。
キチガイと田母神は繋がってるんだよ。
移民の子供で朝廷をかまえ、徳川時代初期は家康に「すっこんでろバカモノ」
というように扱われ、すっこんでたんだよ。ところが、それをまた乗っ取りはかった
どんどん無能力になっていった幕府こそ、取り付かれ崩壊に進む。
それを危惧したメンツが、これはいかんとなった。
しかし、大政奉還の時欧米では幕府にも擦り寄り、朝廷にも擦り寄っていた。
幕府を潰し、新たに出直そうとしたメンバーは一部、幕府から政府に背乗りしようと
していた。それを危険と感じ、会津藩 北海道開拓に飛ばされたんだよ。
えんえんと恨み節なわけだ。その時 擁立されてたのが 南朝で
部隊のメンバーの子、池上四郎を配置し、函館に池上四郎の兄、池上三郎を配置。
日本の内部情報を送り、日本陣営の中に逆賊がかまえてたって事じゃないか。
ほんで南京に会津歩兵隊 ほんで何万人かわからん ただ当時の行ったメンツで
虐殺に関わる行動を起こした。なんで南京を襲ったか。その理由のひとつに、
南京は元の日本人いたとこだから。日本人をとことん、逆恨みして関係性ある
に、おのれ ヤマト~って斬りかかられた事になる。知ってたんでしょ、日本人の
出どこを。中国系だったと。だから殺しにかかったのでは??そーなると、会津と
つまり、自分たちにとって都合の悪い証言をする者は裏切り者であり
許される存在ではないのだ
A. 会津を攻めたのは板垣隊と伊地知隊であり、少なくとも長州が蛮行を尽くせるわけはありません。
土佐・薩摩にしても、会津系作家の小説に出てくるだけで、客観的な史料は何もありません。
一方、会津藩が領民に畳を持たせて弾除けにしたり、
落城後の逃亡中に、郡山など東北各地で略奪・放火したことは史料に残っています。
(2004 郡山市勢要覧 市制施行80周年・合併40年記念号・英国公使館員ウィリアム=ウィリスの記述)
Q. 幕府軍の遺体の埋葬を禁じたとか?
A. 「明治戊辰戦役殉難之霊奉祀の由来」が根拠とされているようですが、
この中には「両陣営の」遺体の処置を禁じる、とあります。
また、2008年福島県で、会津藩士伴百悦の手記が出土し、手記には新政府より金銭を頂戴し、
死体を埋葬したと記されています。
Q. 幕府と朝廷の忠臣だっただけなのに…恭順しようとしてたのに攻めるなんてひどい!
A. その幕府あるいは朝廷から賜った領土(新潟・北海道)を勝手にプロイセンに割譲しようとしましたね。
交換条件は、戊辰戦争で会津側の加勢をすること。
忠臣?恭順?
Q. 戦後、会津藩を環境劣悪な斗南に追いやったのでは?
A. 移封先として猪苗代と斗南が提示され、会津藩自らが斗南を選びました。
旧領地であった猪苗代には圧政に不満を抱いていた農民が多く、拒絶されたとのことです。
Q. 白河以北一山百文とか言って馬鹿にしたんでしょ?
A. 原敬の扇動演説の中で創作されたという説もあるくらいで、
実際に薩長出身者がこの言葉を使い、誰かを嘲笑したというような史料はありません。
「白河以北一山三文」と東北を軽視する言葉自体、江戸時代からあったそうです。
Q. 司馬遼太郎とか早乙女貢とか星亮一の小説にはこう書いてあったんだけど…
A. 小説はフィクションです。
楽しむのは自由ですが、全てが史実だと思わないようにしましょう。
会津観光史学 と検索してみてもいいかもしれません。
会津藩は京都守護職として京都を守りました。
→禁門の変に乗じて勤王派が懇意にしていた複数の民家・商家に放火したところ、火の手が延焼して京都一帯を焼き尽くしました。
どんどん焼けの原因とされてきた乃美織江長州藩邸放火説は本能寺が先に炎上していたことから否定されています。
会津藩には孝明天皇の御宸翰という正当性があります。
→禁門の変に際して薩摩のはからいで下賜されたものでその後の行動に対する正当性の裏付けにはなりません。
会津藩がプロイセンに対して蝦夷地を割譲し援助を提案した証拠がドイツで発見されました。
会津藩は恭順していたのに攻撃されました。
→徳川慶喜の勧告を無視する形で今市(白河)に侵攻しています。
さらに牧野家の旗指物を戦場に残すことで恭順していた長岡藩を陥れて小千谷会談を決裂させ北越戦争の原因も作りました。
また会津藩兵が新政府に恭順した新発田や与板に侵攻して略奪を行いました。(あくまで衝鋒隊や水戸脱走軍の独断とされています。)
薩長は会津領内で乱暴狼藉をしました。
→籠城に備えて会津藩首脳は領民を見捨てて城を閉ざし城下に火を放ちました。百姓には畳を構えさせ弾除けとしたそうです。
会津側に捕縛された官軍兵は手足を縛られ腹を捌かれて皆殺しにされたという英国人の記述があります。
足手まといになるのを拒んだ筆頭家老・西郷頼母の一族21人は自決しました。
→度重なる諫言を行なってきた西郷頼母は松平容保に疎まれて使者として事実上所払いにされた上に刺客まで送られました。
そして母成峠を突破し会津城下に官軍が殺到すると西郷一族の入城を禁じ見殺しにしました。
自決の証人と言われる土佐藩士中島信行は当時脱藩しており従軍していない可能性が高いです。
薩長は遺体の埋葬を禁止しました。
→地面が戦没者の遺体を埋葬できず保留していた処、地元民による死体追い剥ぎが相次いだので
遺体安置所周囲の立ち入りが禁止され雪解け後に会津藩士・伴百悦の指揮のもと弔いました。
白虎隊士中二番隊は落城を悟って切腹しました。
→当時の飯盛山から会津若松城は見えません。会津藩兵によって城下に火が放たれておりそれを誤認した説があります。
中二番隊37名は戸ノ口原で敗走して脱落者が相次ぎ、飯沼貞吉16名は集団心理で狂乱状態にあったようです。
晩年飯沼証言で有名な集団自決「切腹・喉を突く」内容の信憑性は疑われています。介錯なしの切腹は少年兵には難しく
喉切と併用か馬上銃を用いるのが自然であり、喉だけを突くのは着衣を乱さないために婦女が行う方法です。
先述の伴の記述に戦死した少年の遺体を弔った記録が残っていますが、遺体を庄屋・吉田伊惣次が弔い処罰された事実はありません。
途中で脱落した酒井峰治や隊長の日向内記は会津城に帰還し籠城戦に参加しています。
会津藩士は貧しい斗南に強制移住させられました。
→会津藩首脳が一揆が続いていた領内の猪苗代減封を断って斗南移封を希望しました。