はいつまり、江戸時代前期の文をあたしが持ってる意味。伊達で不都合あんのか??あたし多賀主なのに・・・


というかさ。江戸時代初期ならばあたしんち 南朝天皇で扱われてるよ たぶん。

歴史に出されてないだけで。

江戸初期だから 松尾芭蕉って。その芭蕉庵作るのにも あたしんち関与してる。

つうか 徳川に保護受けてたの うちだから。

あと、伊達で朝廷と血の縁組してるという事は、それだけで衰退するから。

はっきり教える。アイツら 人食いだから蝕んで食い尽くしてからまた媒体

探して取り憑く悪霊と一緒なんだよ。

伊達でまともだったのは政宗だけなんだろうな たぶん。

Date Tunamune.jpg


時代 生誕 死没 別名 戒名 墓所 官位
江戸時代前期
寛永17年8月8日1640年9月23日
正徳元年6月4日1711年7月19日
巳之介
見性院殿雄山全威大居士
善応殿(宮城県仙台市
従四位下左近衛権少将陸奥守
美作守

伊達 綱宗(だて つなむね)は、陸奥仙台藩第3代藩主で、伊達氏第19代当主。第2代藩主・伊達忠宗の六男。母は側室・貝姫

生涯[編集]

隠居事件[編集]

幼名は巳之介。母が後西天皇の母方の叔母に当たることから、綱宗と後西天皇は従兄弟関係になる。六男であったが、兄・光宗の夭折により嫡子となる。万治元年(1658年)、父・忠宗の死により家督を継ぐ。官位は従四位下。左近衛権少将。陸奥美作守。
しかし、綱宗自身は若年で家督を継ぎ、酒色に溺れて藩政を顧みない暗愚な藩主とされている。さらには叔父に当たる陸奥一関藩主・伊達宗勝伊達政宗の十男で、忠宗の弟)の政治干渉、そして家臣団の対立などの様々な要因が重なって、藩主として不適格と見なされて幕命により万治3年(1660年)7月18日、不作法の儀により21歳の若さで隠居させられた(綱宗隠居事件[1]家督は綱宗の2歳の長男・亀千代(後の伊達綱村)が継いだ[1]。この間の経緯であるが、池田光政備前岡山藩主)、立花忠茂筑後柳川藩主)、京極高国(丹後宮津藩主)ら伊達家と縁戚関係にある大名や伊達宗勝が相談しあい、幕府の老中酒井忠清に願い出て酒井に伊達家の家老らをきつく叱らせ、綱宗に意見してもらう事で一致したが、綱宗は酒井の強意見に耳を貸さなかったため、光政や宗勝らは7月9日に綱宗の隠居願いと亀千代の相続を願い出て7月18日に「無作法の儀が上聞に達したため、逼塞を命じる」との上意が綱宗に申し渡されている[1]。なお、7月19日には宗勝の命令で綱宗近臣の渡辺九郎左衛門坂本八郎左衛門畑与五右衛門宮本又市の4人が成敗(斬殺)された[2]