鹽竈神社と岩切城


ほら 百済だ。志波姫は百済天智天皇って書いてあるけど天智は百済

さらには牛頭天王社??

もう まるっきり百済

ほんとの天皇って南朝なんだよ。さんざん豪華絢爛にされてるとこって

全部 百済のとこなんだよ。

あと祟り防止してるのか??と思ったけど、そこと向かい合ってた場所 

岩切城なんだな。

志波彦神社は冠川[† 1]七北田川の別名)河畔に降臨されたとする志波彦神を祭る神社である。中世までの詳細な所在地は不明だが、東山道から多賀城へ通じる交通の要所で、軍事的にも岩切城などの重要ながおかれた、宮城郡岩切村(現在の仙台市宮城野区岩切)の冠川左岸に位置していたと見られる。
元禄8年(1695年)に書かれた縁起によれば、天智天皇3年(665年)に始めて官幣が使わされたとされ、往古国主が重要視した大社として社家7人がいたとする。同縁起では志波彦神の由来を塩土老翁神のことであり、栗原郡の志波姫神社と同体であるとしているが、由来については諸説あり[† 2]、現在のところはっきりとしていない。農耕守護・殖産・国土開発の神と伝えられている。
清和天皇貞観元年(859年)に正五位下勳四等から従四位下神階を進め[2]延長5年(927年)には『延喜式神名帳』へ名神大として記載されている。
このように朝廷からも崇敬されていたが、中世以降は衰微して行く。元禄8年の縁起によれば、社地は百姓の耕作によって侵され、天正年間には火災により神具や縁起などの資料を失い、延宝3年(1675年)の再建時には6尺四方[† 3]の小さな社殿となって岩切村の牛頭天王社(現・八坂神社)に合祀された。


岩切城


岩切城(いわきりじょう)は、宮城県仙台市宮城野区岩切にあった峻険な日本の城山城)である。高森山にあることから、別名を高森城(たかもりじょう)という。

歴史・沿革[編集]

岩切は陸奥国府多賀城から西に約1(約4km)に位置し、七北田川奥大道とが交差する陸奥国の交通の要衝である。古代の岩切には多数の市場ができ、東北地方最大の商業地域となった。
南北朝時代の初期、後醍醐天皇が皇子・義良親王(後の後村上天皇)を陸奥守北畠顕家らとともに陸奥国府・多賀城へ派遣すると、多賀城陸奥将軍府が樹立された。現地、東北武士の代表者は伊達行朝結城宗広である。奥羽軍は京都で北朝方の足利尊氏らと戦い、尊氏を九州へ敗走させた。さらに奥羽軍は、二度目の畿内遠征を敢行した。しかし、このとき、奥州管領の岩切城主・畠山国氏、同じく奥州管領吉良貞家は、北朝方として多賀城を攻撃し、義良親王一向を多賀城から福島県伊達郡霊山へ追いやった。
ところが、北朝では足利尊氏と弟・足利直義が仲間割れをし、観応の擾乱となった。尊氏方の畠山国氏は直義方の吉良貞家と岩切城合戦を行った。畠山国氏は吉良貞家に破れ岩切城は落城。畠山国氏は自害して果てた。
一方、弟・足利直義を殺して観応の擾乱に勝利を収めた足利尊氏は、霊山から出撃した奥羽軍の畿内遠征を白河で食い止めると、多賀城を再び攻略した。尊氏は京都を奪回し、後醍醐天皇吉野へ逃れた。こうして、多賀国府を舞台とした奥羽地方政権は、完全に崩壊した。なお、後醍醐天皇は死に際し、義良親王皇位を譲っている。

まぁ 人食いに身売りをした畠山と吉良公たちは人食いに食われたんだ。
人食いに身売りしたヤツは人食いに利用されて捨てられる。
畠山公は自害?? 
足利尊氏は、南朝として上に上がりたくてもあがれないっていうんで、南朝で動いたり北朝で動いたり、結局ひとりで踊り踊っただけ。
人食いの誘惑ってものすごいんだな。あたしはかつて嫌いな連中の誘惑産業と書いた事あるけど。ここに出てくる吉良公って、あの吉良か??
んだほれ~ 三河よーく歴史を学習しとけ。今度こういう事やったらダメなんだって
わかってないと。
うちらが何と戦争してたか わからないとダメだど。人食いシャーマンと戦争してんだから。

吉良貞家

吉良 貞家(きら さだいえ、生没年不詳)は室町時代初期の武将。三河国幡豆郡吉良荘(愛知県幡豆郡吉良町)の前期東条吉良氏の第三代吉良経家の子で、奥州管領吉良氏の初代となり、奥州南朝勢力の制圧に努めた。官途名左馬助・修理権大夫・右京大夫。子に吉良満家吉良治家