今 中東見てっから中国に触れたくないんだよな
今見てたら京都だ。
完璧朝廷残党は 始皇帝の真似。
それらによって うちはガタガタにされたのが結果だから。
混ぜるな危険 化学反応でよく爆発あるけどな
それの威力は 島なくなる規模だからな。
うち滅ぼした連中は始皇帝と斉の真似をし
調べたらその歴史上 恐れられてたものがあったじゃないか
まさしく その恐れられたものがあたしだな
始皇帝は海神おそれてたようだけど 過去書いてる
海神も山神も一緒だよと。
海神封じの意味で作ったか?
過去 福岡で道路陥没あった あの場所 海神神社あんの 偶然じゃないよと
あたしは言ってたんだけどさ。
秦王政が感心した韓非の思想とは、『韓非子』「孤憤」節1の「術を知る者は見通しが利き明察であるため、他人の謀略を見通せる。法を守る者は毅然として勁直であるため、他人の悪事を正せる」という部分と[43]、「五蠹」節10文末の「名君の国では、書(詩経・書経)ではなく法が教えである。師は先王ではなく官吏である。勇は私闘ではなく戦にある。民の行動は法と結果に基づき、有事では勇敢である。これを王資という」の部分であり[44]、また国に巣食う蟲とは「儒・俠・賄・商・工」の5匹(五蠹)である[44]という箇所にも共感を得た[41]。
秦は強大な軍事力を誇り、先代・荘襄王治世の3年間にも領土拡張を遂げていた[24]。秦王政の代には、魏出身の尉繚の意見を採用し、他国の人間を買収してさまざまな工作を行う手段を用いた。一度は職を辞した尉繚は留め置かれ、軍事顧問となった[41]。
王綰らは、五帝さえ超越したとして三皇の最上位である「泰皇」の号を推挙し、併せて指示を「命」→「制」、布告を「令」→「詔」、自称を謙譲的な「寡人」→「朕」にすべしと答申した。秦王政は号のみ自ら変え、新たに「皇帝」の称号を使う決定を下した[9]。なお、戦国時代の秦王は、斉王とともに、一時期であるが西帝・東帝を名乗っていた。
始皇帝は周王朝時代から続いた古来の支配者観を根底から覆した[58]。政治支配は中央集権が採用されて被征服国は独立国の体を廃され[59]、代わって36の郡が置かれ、後にその数は48に増えた。郡は「県」で区分され、さらに「郷」そして「里」と段階的に小さな行政単位が定められた[60]。これは郡県制を中国全土に施行したものである[57]。
始皇帝は各地の富豪12万戸を首都・咸陽に強制移住させ、また諸国の武器を集めて鎔かし十二金人を製造した。これは地方に残る財力と武力を削ぐ目的で行われた[71]。咸陽城には滅ぼした国から娼妓や美人などが集められ、その度に宮殿は増築を繰り返した。人口は膨張し、従来の渭水北岸では手狭になった[71]。
封禅[編集]
第1回目の巡遊は主に東方を精力的に回った。途中の泰山にて、始皇帝は封禅の儀を行った。これは天地を祀る儀式であり、天命を受けた天子の中でも功と徳を備えた者だけが執り行う資格を持つとされ[97]、かつて斉の桓公が行おうとして管仲が必死に止めたと伝わる[98]。始皇帝は、自らを五徳終始思想に照らし「火」の周王朝を次いだ「水」の徳を持つ有資格者と考え[99]、この儀式を遂行した[100]。
これは昭王の時代に周から秦へ渡った九つの鼎の内の失われた一つであり、始皇帝は全てを揃え王朝の正当性を得ようとしたが、かなわなかった[96]。この件について北魏時代に酈道元が撰した『水経注』では、鼎を引き上げる綱を竜が噛みちぎったと伝える。後漢時代の武氏祠石室には、この事件を伝える画像石「泗水撈鼎図」があり、切れた綱に転んだ者たちが描かれている[96]。
『三斉略記』は、第3回巡遊で碣石に赴いた際に海神とのやりとりがあったことを載せている。この地で始皇帝は海に石橋を架けたが、この橋脚を建てる際に海神が助力を与えた。始皇帝は会見を申し込んだが、海神は醜悪な自らの姿を絵に描かないことを条件に許可した。しかし、臣下の中にいた画工が会見の席で足を使い筆写していた。これを見破った海神が怒り、始皇帝は崩れゆく石橋を急ぎ引き返して九死に一生を得たが、画工は溺れ死んだという[103]。
一方で南には嶺南へ圧迫を加え、そこへ逃亡者や働かない婿、商人ら[118]を中心に編成された軍団を派遣し[116]、現在の広東省やベトナムの一部も領土に加えた[46]。ここにも新たに3つの郡が置かれ、犯罪者50万人を移住させた[116]。
李斯はこのような「妄言」の根拠となる「古い本」すなわち占星学・農学・医学・占術・秦の歴史を除く全ての書物を、博士官にあるものを除き焼き捨てる建策を行い、認められた[126][127]。特に『詩経』と『書経』の所有は、博士官の蔵書を除き[注 3]厳しく罰せられた[123]。この焚書は、旧書体を廃止し篆書体へ統一する政策の促進にも役立った[128]。
末子の胡亥と左丞相の李斯を伴った第4回巡遊[142]は東南へ向かった。これは、方士が東南方向から天子の気が立ち込めているとの言を受け、これを封じるために選ばれた。500年後に金陵(南京)にて天子が現れると聞くと、始皇帝は山を削り丘を切って防ごうとした[143]。また、海神と闘う夢を見たため弩を携えて海に臨み、之罘で大鮫魚を仕留めた[143][144]。
ところが、平原津で始皇帝は病気となった。症状は段々と深刻になり、ついに蒙恬の監察役として北方にとどまっている[145]長子の扶蘇に「咸陽に戻って葬儀を主催せよ」との遺詔を作成し、信頼を置く宦官の趙高[146]に託した。7月、始皇帝は沙丘の平台(現在の河北省広宗県[147])で亡くなった[2][143]。伝説によると、彼は宮殿の学者や医師らが処方した不死の効果を期待する水銀入りの薬を服用していたという[81]。ただし『史記』にはそのような記述はない。唐朝後期の皇帝に見られる記録である。