鬼怒川ラインって断層あったっけ??

鬼怒川


桓武じゃないなー あの奥にいたのは

そうか 毛野川か なーるほど

ほんで 毛野はうちの系統だ 

あと衣って単語 出てきたけど 衣って源平合戦かなんか 岩手と宮城の県境に

もなかったか?? 

衣川の戦いって源義経源頼朝の指令で動いた勢力だから死ぬハメになったんだよ。

源頼朝親子は、源満仲の遺産を大江に献上し、

八幡を殺しにかかった源氏親子だからね。

しかし、この前も書いたとおり、源平合戦義経は義仲を逃がした可能性がある。

そうすると、奥州藤原で死んだとされるのは死んだ事にして

藤原が隠してくれた可能性もあるってことだ。

損害
東大寺興福寺が焼失
Sasa Rindo.svg源義仲側滅亡
Ageha-cho.svg平氏側滅亡


ja.wikipedia.org/wiki/衣川の戦い - キャッシュ
衣川の戦い(ころもがわのたたかい)は、文治5年閏4月30日(1189年6月15日)、陸奥 国衣川館で藤原泰衡源義経主従を討っ ... に屈して、「義経の指図を仰げ」という父の 遺言を破り、閏4月30日、500騎の兵をもって義経主従を藤原基成の衣川館に襲った。


衣川の戦い

衣川の戦い 交戦勢力
戦争
年月日文治5年4月30日1189年6月15日
場所陸奥国衣川館(現・岩手県西磐井郡平泉町高館、または奥州市衣川区接待館遺跡
結果奥州藤原氏方の勝利
奥州藤原氏源義経

経過[編集]

奥州藤原氏三代・藤原秀衡は関東以西を制覇した源頼朝の勢力が奥州に及ぶことを警戒し、義経を将軍に立てて鎌倉に対抗しようとしたが、文治3年(1187年)10月29日に病没した。頼朝は秀衡の死を受けて後を継いだ藤原泰衡に、義経を捕縛するよう朝廷を通じて強く圧力をかけた。一方、義経文治4年(1188年)2月に出羽国に出没し、鎌倉方と合戦をしている。また文治5年(1189年)1月には義経京都に戻る意志を書いた手紙を持った比叡山の僧が捕まるなど、再起を図っている。しかし泰衡は再三の鎌倉の圧力に屈して、「義経の指図を仰げ」という父の遺言を破り、閏4月30日、500騎の兵をもって義経主従を藤原基成衣川館に襲った。
義経方は、主従の武蔵坊弁慶鈴木重家亀井重清らがわずか10数騎で防戦したが、ことごとく戦死・自害した。館を平泉の兵に囲まれた義経は、一切戦うことをせず持仏堂に篭り、まず正妻の郷御前と4歳の女子を殺害した後、自害して果てた。享年31であった。


鬼怒川

鬼怒川(きぬがわ)は、関東平野からへと流れ利根川に合流する一級河川である。全長176.7kmで、利根川の支流の中で最も長い[2][3]
江戸時代以前、鬼怒川は常陸川などと共に香取海太平洋につながる内海)へ注ぐ鬼怒川水系の本流であったが、利根川徳川家康の命令により東遷されそれまでの常陸川の河道および太平洋までを流れることになったに伴い、鬼怒川も利根川に注ぐ支流河川とされた。
名称は、当初は毛野地域(栃木県群馬県域の古地名)を流れる川として「毛野川(毛野河)」と記されたが、中世から近世には「衣川(衣河)」や「絹川(絹河)」の字があてられ、明治初期から「鬼怒川」の文字があてられるようになった[4][5]
上流域にある鬼怒川温泉の略称としても使用される。