GOOで規制かかったから こっちに移す。山形から持ち込んだ仏はうちのだ。相馬藩から全部撤去。集団ストーカー相馬の人間が皇居じみてる。

山ほど言いたい内容がある、パソコンデータなんてパンパン
そういう人達 黙って聞いてるつもりなんだろうが始末対象なんだが
山形から持ち込んだ物の一部はうちのものだ
複数ある気がする 
そのうち1つ熊野権現は山形からではない
もしかして相馬エリアが皇居だったのか?罪人が皇族側に立って
 
支払いをしないヤツと縁切りする 誰でもやってる事だ
あたしは仏の返却だけを要求してたのではなく金の支払いが先だ
この国から
上級国民をあたしの家が作ってやってたのではなく、犯罪者が身分や財を悪用し上級国民の立場を守って、公的機関がこいつらを保護してただけだ こんな国あたしは知らない
現状のままだと上級国民側の特権が、あたしにダブらせる事でその連中はさらに肥大化する それは犯罪の延長でそうなってしまうんだ
こっちが被害者のままで
 
 
顕信の関係は、伊勢北畠と合体し、信雄が森と組んで、大江がこれに合流してたらそれの起点は山寺で天童市寄りだ
信雄の方面が森の派生を送り込んだというか そのせいで中館近くに「第六天」という地名がついてると思われる
 
山形を2分する内容だ 両方というわけにはいかない
 
山形に諏訪神党の部隊が潜って生活してると思うが、これは顕信と、信雄に繋がる乗っ取り朝鮮赤十字の関係
このルートは最終的に相馬秀胤に繋げて相馬の集団が食う
だから顕信のルートはダメ 相馬秀胤とは天童城主だったと肩書を述べ、北畠顕家の子を天童丸だと流布し、全部背乗りしてる黒木の方面だ
相馬秀胤(織田信恒)は肥料関係に関与した相馬一族のカウント
 
鹿島に森の苗字が宮司側にたってるのも、この連中は「森蘭丸森可成」の末裔のつもりで立ち回っている。織田信恒という名を使ってた相馬秀胤が、織田信雄の役をやってたら、相馬藩中枢が織田信雄という感じ。
織田信長じゃないぞ?織田信雄 
織田信雄が伊勢北畠の養子に入ったという話を、この連中は昔から利用してた。織田信雄は伊勢、顕信の子が伊勢国司だったという話は、織田信雄時代に創作されただけかもしれない。
森可成が自称三左衛門と名のった原因はあたしが推測してる通り。
相馬市黒木地区の諏訪神社宮司桃井可生
こっちも森可成の末裔でも意識してるのか 同じ読みだ 漢字が違うだけ
 
 
 
 
画像出してもいいが、鹿島の御子神社の森昭文という宮司・その前は森顕という名だった。これは偶然でなく、相馬の連中は顕成を殺す側にまわって、大勢で顕成の子孫を自演してた。
これが不都合だから、顕信の子と顕家の子を同じにしてたんだ。
顕信の子側についてるように立ち回り、逃げる 顕家の子のほうへは暗殺を繰り返し、仏や遺品は俺らで窃盗し、俺らが管理者側に立ち、天童丸に尽くしてるんだ風に。
天童丸は顕家の子だと言うと、あたしの先祖らの物が顕信側のものにされ、この顕信側というのが伊勢北畠と一体化した織田信雄、後世では相馬秀胤。だから、こういう流れにしてた連中は相当前から北畠顕家の第三子を流布し、第三子はいないのに第三子が天童丸と言って利権を食うやり方をしてたんだ。
 
ということは、即位してた天皇というのはうちのほうだ。
長慶天皇 その子 後亀山天皇もうちなんだろうな そうなると。
伊勢で不都合なのは長慶天皇時代の海軍が こっちに流れてしまうと言う事聞かなくなるから伊勢で従えておくのに伊勢国司は北畠顕信!!!って事を強化したんだろう
だから北畠顕家の子は北畠顕信の子とすり替えて伊勢に有利になるように!って謀ってたのはこの流れでもわかるだろう。伊勢海軍なんていらないよ別に。
 
北朝南朝の血統の話は全部朝鮮組織の嘘。
ただ単に北部の朝廷使うか 南部の朝廷使うかでトップが抗争になっただけ。
平安京と吉野が抗争した。吉野京という名が出てきてないのも、そいつらの隠ぺい。
 
顕信は伊勢と化し、織田信雄と森と相馬に代わっている。
絶対にこっちと混ぜてはいけない。顕信側に諏訪神党朝鮮総督府がある。
伊勢は中華総連府?的位置か。この伊勢と出雲が繋がってるのは、わかるとおり三種の神器の話でだ。これに名古屋が加わって、和歌山の熊野本宮や熊野那智を徳川で抑えてたら、これは徳川と松平のシステム組織になって上級国民が固定になってきた まさしくこれ。
三種の神器の話には触れたくもない いわばこれが出始めの時、これは創作も含まれている為、ヤマトタケルノミコトだとか、日本武尊って、この文字で読める?読めない漢字を使われてる段階で2000年経とうが朝鮮総督府と中華総督府の洗脳から解かれないよ。
 
〇山形から入った修験者は昔の木曾義仲外野の関係で顕信の関係ではなかった
※この人達は断絶したり殺された
殺した側の修験者らが今 うちの仏すら窃盗したのを隠してた連中だ
これは顕信の側についてるように見せ、実は相馬秀胤を天童丸と作ったグループの下部修験者
木曾義仲のグループの修験者を殺した連中が馬頭観音崇拝者と思っていい
木曾義仲のメンバーは月山朝日村方面に入ってる
これらは、寒河江つまり大江(毛利)とはよく喧嘩になったと思う
 
大江(毛利)は後村上皇子や後醍醐天皇末裔と組んでた 〇良親王のグループ
最上に代わってる この流れ。山寺はシバの庭だったわけで。
この末裔と称し楯岡の苗字があるようだが 村山市と熊本
 
 
〇渡部姓 修験者
越後の修験と載ってる事から、会津山岳部・新潟の境界あたりから流れてきてる この条件にマッチするのは渡部恒三の界隈会津藩※ソースページ探し中
鹿島の本P90に渡部法印甲不動尊堂とあり、出羽三山や熊野参りに道案内をしてたと載ってる
 
渡部恒三自体が南会津方面で、なおかつ親が渡部又左衛門
数日前会津藩戦没者ページから会津での死亡者に日向左衛門という名を見つけた、左衛門だけならまだしも、父が与惣右衛門とあった。
うちの吉左衛門 与宗治 與惣治の名に関わりあるように見えるでしょう?
鹿島のメインストリートは会津含めた一向宗の軍団で 星の苗字も会津藩方面から、鹿島と会津藩は行き来があった 連絡係もいた いつから?一向宗移民が始まってから。
 
下総香取郡から相馬重胤に従ってついてきた渡部蔵人丞 小山田村に移住P102 森鎮雄の本だとP13
 
1,会津にある故人の墓
日向與惣左衛門(町奉行)の子 日向左衛門(名が次孝)でその子が日向新太郎
1ー1日向與惣左衛門=日向左衛門
1-2日向新太郎
 
2,(相馬の偉人)渡部源兵衛美綱
渡部太郎右衛門の二男。行方郡石神邑(原町市石神)で生まれ兄安綱の養子となる。初は粂(くめ)右衛門、改めて宗左衛門斧右衛門と称したが、改めて勘右衛門。後さらに、源兵衛と改め、能綱と號し、能綱を美綱と書き改めました。外孫は原田氏で十右衛門慶植は、旧佐々木。幼名は亀太郎。妻は村井五藤次の妹、後妻には北郷小島田の荒宗左衛門の女
 
鹿島の神社仏閣P90
渡部法印甲不動尊堂 安倉観音堂の渡部成美のフカシ
南柚木堤田
出羽三山や熊野参りには先達をした 柚田山龍本寺覚法院は岩松が下向した時期あたりからいたように書いてる。だったら岩松下向は応永13(1401)年、後小松が出てて時期になるが、これはフカシ脚色だ。たぶん1750年あたりで、出羽三山・熊野と言ったら顕家の子孫が鹿島の橲原に入って山形のそことパイプ持ってた時じゃないと、相馬のエリアから金無しで道の地域に行けないぜ? 
 
 
〇多田姓 修験者
鹿島の本P77修験の多田家 縁起にある大日坊光福院は大正中期に22世多田大光院職で廃院「光福院不動堂」旧鹿島町大内字宮下
 
明治新政府の学制領布による、真野小学校の前身は当院「光福院」の大内小学校から発足した👈意味がわかるように書くべき
真野小学校の前身はこの寺だったということ❓だったら、寺と大内小学校を分けて書くべきでしょ いかにも寺が大内小学校だと繋げてるのは書いてるヤツしかわからない文書 この本の原稿は多田が書いてるな?その多田姓は、安養寺の周辺に多々いるようだ
大内にある金剛界木造大日如来も山形から持ち込んだはず 誰だこの多田
大内というか真野小学校・死んだ父親がそこの場所について何か昔言ってた
大日坊は月山の所なわけで栃木ではない
 
〇湯沢薬師堂P76大内字滝尻
中世泉館(原町泉区)の泉氏分流大内三郎胤玄の子「大内大旦那胤正」の胎内銘がある、また傍ら族の大内孫右衛門は中村城下の麓給人(家中武士)だった
その玄孫が明治の廃藩によって中村城下から大内村の土着した
與惣治の嫁って泉氏分流の大内だな❓つまり相馬一族グループだった訳だ❓
嘘ばっかこいて窃盗使い込みのハッタリ傘下 この大内の誰かが、東京都中野の区長だか町長をやって、諏訪氏の出目根拠の中野になってるんだな❓
その中野にアキヒト友人の有馬頼底が顔きかせてるんだな❓
まったく赤の他人らが俺も 俺も 紐繋がりのゴミをウジャウジャと手を繋いでヘラヘラやってるんだ?
與惣治が鹿島にいた事自体が間違ってる 浜名一族は処刑されるべきだな
剣道師範だなんてとんでもない話だ 
 
修験者ぶった多田は 多田なのか多田野のパクリなのか
こういう存在も影武者ぶってたかもしれない 第一22世多田の坊主がそこにいた事すら有名ではなかった 大日本帝国の陸軍の多田の関係者で、この連中すべて朝鮮スパイで潜り込んだ出目捏造者ばかりだ
牛渡一家が霊山の仏を持って23代目と言ってたらしいコレと同じ臭さ
多田の苗字ならうちで金貸した証拠が残ってるくらいだ 
ああ多田水里の名が記録で出てた 多田水里 上真野村って出てるぞ
霊山記略に 大内にいた訳じゃないだろ 現状だって多田姓は安養寺方面だ
 
今確認した 多田宏政 不動院
與惣治の嫁が再婚した相手の子供じゃないの❓
そこの不動院の建てる金 うちの金だろ
戸籍何度も見て何年もかかってこういう人を発見してる感じで
逆にこいつらは知ってて隠してのうのうと親族増やして生きてた
どこまでも嘘吐き朝鮮人関東軍だな やってる事が
與惣治の嫁が相馬の泉家の枝ってされてたら相馬の女と見なされる
ここがまず問題で、この婆が源孫の戸籍ガチャガチャを黒木と組んでやってる
組んでなくて仲悪かったとしても、結末がこうなってるのだから
 
與惣治の嫁がキヨという名で苗字が大内
戸籍よく見ると與惣治死んでから籍を抜いている 大内の女キヨ
この女は大内松下29の大内文雄の娘となってるが大内松下28に家はない
あるのは22番の大内の家 大きな家じゃないようだから、敷地の一画の地番を戸籍証明に使ったなら詐欺みたいなもの
この大内キヨが一時的に結婚してる間 只野の苗字を使って、源孫兄弟とし他人の子を混ぜて戸籍に子を増やしてる
この女が與惣治死んでから籍を抜いて その後の戸籍が追えない
しかし見つけた 多田キヨの名を使って、光福院不動堂の目の前にいた
 
そもそも「真野小学校はもともとこの院の真野小学校から発足した」と書いてるから見つかったんだ
ここの建設費用はうちから強奪した 大内キヨが
照合画像出してやるが、大内キヨは大内の息子か娘の庭に戻って多田姓を使ってた 再婚相手がいて多田の苗字なら、この女は多田の子を作って與惣治の子供から金をまき上げるのを手伝ってた事になる
 
そして 不動はもともとうちだって書いてた通り 不動に繋がった
あたしは諏訪神党など認めないし、諏訪神社の流れがどれほど酷いのかを
ちゃんと表に出した あたしは被害者自演なんかやっていない
山形の修験者がこれらというのならば ご縁を切ってちゃんと約束守れる人達に遭遇したい
 
 
 
大内の家で うちの吉左衛門の子が池田輝政浅野長政らだって知ってて
息子?に宏政ってなづけたのか❓
相馬の人殺しエリアは 本当に隠し事をして違う情報を洗脳してくる犯罪者エリアだね
あたしがもしかして。。と気づいたのはここ数年だ やっとだ
それを親戚ぶった自称親戚どもがやってた事は何だ?盗み戸籍改ざん金横領と横流し 源孫殺害 他人の子を戸籍に入れ上下関係のかく乱 山ほどある
 
ー三左衛門ー
1人目 うち 多田野吉左衛門 一時青森浪岡に行ってた事があり、浪岡に吉左衛門の名が残ったと推測 浪岡吉左衛門の後裔が名前違うのはうちが青森から離れて鹿島に戻っているから
多田野吉左衛門=浪岡吉左衛門
2人目 池田輝政
3人目 浅野長政
 
鹿島区大内長岡にある大日堂の大日如来像はうちの仏だ 
返してもらわないと困る
 
 
 
杉の阿弥陀堂阿弥陀がうちのなのか わからない
お前の家は多田満仲の子孫だと洗脳してた連中が窃盗品をうちの遺物みたいに
言ってたなら、窃盗品だった場合 罪かぶせされてる事になる
勘で言えば 阿弥陀は古いと言ってるようだが
 
 
 
 
相馬尊胤は相馬昌胤の兄って書いてあったのを見たから昌胤も出す👇
幾世橋昌胤 幾世橋が将監というワード使ってる やはり仙台市泉区の将監
地域を指してるように思う
仙台の泉区が相馬家の領地だったように思ってしまう。これだと相馬6万石の話もきな臭い。
つまり伊達政宗側の捏造問題 伊達政宗が使ってたメンバーのリスト見たら
顕成産まて宇津峯までの経過上 襲撃してた苗字ばっかりだしな。
 
うちを藩主にされても困る!使ってもいない犯罪者らが役人ぶって窃盗恐喝やってた役人もどきだ こいつらは替え玉思考で金はうち、地位はあっち みたいにすり替えてきてんだ何百年も。
 
相馬昌胤が誰か たぶん幾世橋か郡 浪江つまり昔の標葉家臣と組んでた郡
の可能性高い
そして某ブログにあった 伊達政宗家臣側にいた黒木って懸田の苗字だったよと。懸田は、梁川か伊達崎だ。懸田義宗が相馬義胤だとあたしが言ってるんだが、懸田義宗(相馬義胤)が標葉と動いてあちこち遠征してる。この中で郡が出没始まってる、この郡が伊達崎の桑折だ たぶん。田中城で真野農民を殺害してから、桑折方面より移植させてる。これをバックボーンに浪江まで移動してた、宮城県だと角田・大河原。天神堂の僧が田中城で懸命に戦ってたという話、天神堂とは相双ではなく宮城県大河原町だ。田中城主になってもいいよと領主顕胤に言われた話もでっちあげ、真野農民虐殺し顕家の子孫を追い出した感じで、城(農地・人民を含む)をもらったんだは大嘘、その顕家の子孫に顕胤と名前つけるなんて発狂する。こういう事を企てた桑折・郡と意見が合わない伊達輝宗が二本松で殺された。この時、伊達政宗と畠山は組んでた。この頃あたりから、大河原に秩父が介入、後に高松も介入大河原・伊達崎の桑折(郡)が鹿島に秩父姓の人間入れたり現皇室とされる連中の出目と接点持ってる。この先に出てくるのは、大山倍達秩父神社のそばにに石碑建てた空手選手の朝鮮人)、アイリスオーヤマ
 
 
 
 
 
 
大内キヨは相馬一家の別家 泉家と称しうちで持ってた仏を窃盗
中世泉館(原町区泉)の泉氏分流大内三郎胤玄の子「大内大旦那胤正」
傍族の大内孫右衛門は中村城下の家中武士
だったら、藩主にだったらこんな事しないよな? うちは藩主と重複させられて金だけ集団犯罪の被害にあう家だった
大内キヨは只野與惣治と結婚したのは、相馬の畜生どもが引きあわせ
相馬の畜生どもが源孫の兄弟として滅茶苦茶に他人の子を入れて相続や兄弟の上下関係まで全部作った 捏造でだ💢
吉左衛門の名が彫られてる小さい墓石だった 2つは最低でもあった
両方削られてた 証拠隠滅だ
大内キヨが出てきた時期は吉左衛門が殺されていなくなってる
その時に赤の他人 只野由右エ門=只野由五郎が吉左衛門の名の物を相続したように改ざん これは相馬藩役所側が集団でやってる これに大内家も加担
大内キヨは與惣治死んでから婚約解消としたのは、自分が独自で只野家をやるつもりだったんだろう 旧姓の大内に名を戻さないで多田キヨの名にしてる
しかも大内の一家親族の居住地で、仏まで持って寺だの堂だの神社だのって
名前デタラメでも通った時代、只野でなく多田の姓を使った。多田という家の男と結婚したか?だったら大内家の敷地内にいないよな?
吉左衛門の名が彫られてる石は大日如来梵字だ 真言宗が当時うちの吉左衛門に関わってたと昔書いてたが、大日如来もうちにあったなら墓石に大日如来梵字が彫られてもおかしくない
 
福島県会議員の相沢金之丞がはっきり言ってた
オタクで仏像集めに傾倒してたから、あの仏は他所から買ってきたんだよと
その仏は山王大権現のことだが、仏集め うちで大日如来も持ってたんだ
それ盗んだの隠して相馬藩家臣の分際で神社だ寺だと営業やってたんだ
大内の家 うちで大日如来以外にも持ってた計算だ
んじゃもし昔から大内の地域にあったというなら、大日如来に関する伝承がいくつもあっていい、その近くに中舘の日吉神社あんだから、2つの伝説として残ってないとおかしい。しかしない。大正か昭和時代に大内キヨがうちから窃盗しただけだから。
この大内キヨの子が多田の姓を使ってると思うが、その子は源孫の兄弟だって言うのか?他人を兄弟に入れて與惣治まで騙してた大内 相馬の枝流泉家。
そうなると「大日堂:寛政7(1795)年大内村長壽院跡大日堂大日如来像うんたら」は嘘。
「光福院不動堂:創建1596-1615年」こっちに置いてたんだ大日如来
そしてうちが菱垣廻船江戸初期からやってるって話に繋がるが、この大内の場所は大内らがゴチャゴチャ住んでるが、烏崎に菱垣廻船立ち寄りさせていたその場所の正面だ。
この大内に置く前に橲原に置いてるんだ 大内が烏崎の前に住み着いた時、施設建てたならうちであり、大内の家の物なんかじゃないわ!
あたしの家に多田の名が書かれた借用書があった 泥棒入ったな?
源孫の戸籍で手書きの物 ハジメ 太の名が書かれたヤツが無くなってる
これと一緒に盗んだな?この2つがあると困るヤツが窃盗する。誰?大内・多田・郡・但野しかいない。役所の謄本の手書きできちんとした公正文書に、ハジメとフトシって書かれて源孫が3男にされてたんだ。そして、これがどこにあるのかを知ってないと盗めない つまり盗撮やってる警察側に多田キヨや大内達がいる。大内の家晒すのなんて序の口だ。
あたしはもう、昔は親戚だったのよみたいな話は一切聞かない。
まるっきり泥棒窃盗がこういう連中なんだから。
 
大日坊光福院は大正中期に22世多田大光院職で廃院←吉左衛門の名が彫られてる墓石 葬儀は多田だな?うちの仏をあたかも昔から持ってるフリしてた大内の家 22代目って1000年以上継承してるハッタリだ
それに匹敵するのはうちなんだが。22代×1代を仮に50年で見ても1075年
嘘吐き大内の家は泉家だと。この家に大日如来があるから野馬追やってるのか?馬頭観音うんたらって真言宗が。うちの大日如来返してもらう。
嘘吐き鹿島の大内家は相馬〇胤の分家を装ってた他人で昔の家臣だろ?
とんでもない話だ このせいで、泉に家を買い、将監に住んでた家は巻き込まれたのか?大内の誘導だったんじゃないか 黒木だけじゃないんだな誘導してたのは。
呪え呪え 大内を呪え
多田の名使って修験者ぶってるが満州工作員だ 大内の家
鹿島の光かタツからも金を借りてた仙台市の多田の家は この多田駿親戚?
書面無くなってるんだが
 
 
北畠顕家(1318-1393)の一人息子 母:大江松代
1,北畠顕成(1337-)=玉野式部少輔=春日侍北畠顕國※長慶天皇の父親
👇
子ー熙テル成親王(1354-)=長慶天皇(顕家の孫) 
妻:日野か新田か田村の娘
長慶天皇=新田顕成=(顕國と同一視されてた❓)  
子ー伊達方面に男か女が養子で行ってる 伊達行朝か宗遠の関係
  ※桑折に繋がる人間かもしれない 桑折のストーカーっぷりから
  その末裔の子が伊達輝テル宗かもしれない
  (二本松で伊達政宗に暗殺された)
  池田輝テル政はこの延長で名前1文字使われてる(輝政は池田恒興の後)
 
2,北畠顕成2代目熙テル成親王=(長慶天皇) 
妻:日野か大江か新田か
👇
子ー貞成親王 山形と青森を行き来してる 
山形に行ってる 大日堂の創設者だったかもしれない
 
3,貞成親王(1369-)=後亀山天皇(顕成の孫) 
後亀山天皇=伊勢と伏見で貞成と顕能を混在させてゴチャゴチャにし名義だけ
、人物いたように作ってる 顕能が最初に浪岡一族に入ったヤツで、これがどの文献見たってそう書いてない不思議さ
 
 
一切の関わりを禁じる 伏見の一派
血が繋がってるから私達は神なのよ!と言う窃盗教祖が増える原因になる
現在の順位
14072位
伏見の一派が森昭文・御子神社・メトロパチンコ
現在の順位
14146位
伏見の一派は戦犯責任者であり私の家は戦犯大日本帝国に殺され洗脳犯罪された家だが
現在の順位
14285位
その血すら汚らわしい泥棒穢多非人のカルト修験者 伏見
 
現在の順位
14427位
貞成親王は熙成親王の子で熙成はテルナリと読む
伏見集団の出してる証拠等いくらでも改ざんできる
 
現在の順位
14524位
貞成親王の子に再度貞成が出た時 相馬藩が勝手に貞胤と名付けた
この貞胤とされた人物は出羽の修験者を使った 出羽修験者が本当の隠密部隊だった 貞胤と名前つけた連中はうちが鹿島の橲原に持ってきたものを総勢で盗んで移動する為に殺した
 
現在の順位
14686位
もともと 天台宗から逃れたうちが天台宗と別の宗教を山伏使ってやってた
最初の山神神社が大本で、この山神神社は当家で、山形勢の助っ人入れた橲原が拠点だった この山神神社が東北の山神の石を配った大本で大本山
そして、この山神神社をパクって始まったのが飯館村の山津見神社
これを嗅ぎつけた足利幕府の栃木勢の修験者が橲原近くに入り込んで、吉田神道なるものを作り、こいつらが比叡山天台宗の一派だった修験者とくっついて、比叡ヒエ+吉田ヨシダ=比叡(日枝)神社=日吉神社という組織を作ってる