あと、今日 大変な事がわかった。これな 深夜眠れなくて その代わりに導かれた。日吉神社のとこ うちの土地だ。

そもそも日吉神社のとこ 城跡になってるんだ。

あそこの城跡 そもそも屋敷というか城が建ってた。そん時 うちでいたんだ。

あそこの土地 うちのだ もともとは。

城がうちのだ。

しかし、今は城はない。そんかわり 神社が建ってる。その神社建てたのも

資金はうちから出たんだ。

あそこの宮司や氏子たち ずらっとして今まで 自分の家 自分たちの引き継ぐ

文化みたく思っていろいろ石碑みたいなのを建てたようだが、それぞれ

昭和時代にがちゃがちゃと建てたんだ つまり相馬藩がやらせたわけ。

あそこの土地も城もうちの所有物。宮司なんか アカの他人。

うちの家族は、さんざん聞かされていたのに、あたしが二十歳の頃は あそこの宮司

のほうがエライかのように宮司を立てていたが、大間違いだ。

滋賀県発 日吉神社 あそこはあたしんちの城だった。返してもらいたい。

そして、そこに降りたのはもちろん北畠顕家の子 それがうちだ。



この相馬藩の大罪を、あたしは死んでも祟り出てくるつもりだ。

そしたら、あたしが眠れなくて わかった事を提示する。

天皇南北朝時代 北畠が霊山から降りてきた そんで匿ったのが源満仲の血統

木曽義仲南朝勢力。ここらにいたってことだ。

長野で、なるほど・・・ってなるから。そうするとあたしが過去白馬村の地蔵

見た時に、そのブログを あーこれ懐かしい感じがする

と書いた理由も合致する。

そんで、日吉神社建てる前は城 北畠の頃は城

それを相馬藩でがちゃがちゃに壊した。だけど、城跡だとわかる。

そんで上物はずっとなかったんだ、壊されて。下手すると放火もされただろう。

どんなやり方か 城の上物はなくなって、もちろんそこにいたら危ないから

鎌倉・戦国時代には どこかに避難してたと思われる。

城跡に、城は作っても壊されるし 利権も奪われたのだからね。桓武平氏

連中と相馬藩に。

そして、戻ってきたのが江戸時代あたり。それ、徳川家康がうちの家系を

見つけて、保護かけたわけさ。そんで、幕府では、うちにお金を持ってくるように

なった。その江戸時代初期に、松尾芭蕉の弟子 枳風と芭蕉庵の出資をしてる

のもうち。松尾芭蕉が江戸初期だから。その時点でうちは出資できるほどの金

を持ってたということと、徳川幕府から天皇として認められてたということ。

そんで、江戸時代になって、日吉神社の場所に建物を建てた可能性がある。

しかし、放火されたと思われる。それで、隠れるように鹿島の街中へ移動して

きたんだ。その街中へ移動した屋敷にも放火された それは先祖の文書に残ってる。

そんで、まぁー屋敷を街中に建てた時、日吉神社のとこに建物はなかったと

思う。なくされたから、移動したと思うしね。

そんで、日吉神社を建てたのがその頃ではないかと思う。

江戸中か後半に、日吉神社のとこに小さい神社を建て、住処は街中にしていた。

そして、明治になる頃に、南朝天皇を立てる動きになった時

米沢藩の計らいもあって、日吉神社をちゃんと建て直したのだろう。

だから日吉神社には家紋の笹竜胆が屋根のとこにあるんだ。うちで建てたんだ。

そんで、そこに相馬藩の家紋を入れた不届き物がいる。

相馬藩で9万両以上の金を、ふんだくっておきながら家紋を入れるっていうのは

島津貴子もかんでいる。つまりインチキ天皇家のアキヒトの妹がかんでいる。

日吉神社にした時に、そこをうちは離れたんだ 何度も放火や強盗にあってる

から。目立つとこにいると見つかるしな。

そして、日吉神社になったのは相馬藩と関係がある横浜正金銀行の相馬が滋賀

出身だというのと、うち 天台宗にあった阿弥陀もってきてるから。

それに乗っかって滋賀で、そこを天台宗日吉神社は滋賀管轄だというノリで

日吉にしたんだろ。山王権現 それが本来の名称だ。

だから何度も提示してるように、滋賀には1300年以上の恨みがある。

どこまでこの連中は、ひとの足元を追いかけて 管理したがるのか。

そのクソ根性の根源は百済だ。半島脳が、どうしても管理したい 支配したい

その根性ばかり表に出す。

滋賀が本山??  本体はうちにある。これは衝撃の事実。天台宗はお断りすると

さいさん提示してる。その発祥 中国にもお断りの提示をきちんとした。

あたしは礼儀ただしい。

日吉神社として追いかけてくるのは大間違いだ。そして木曽義仲が滋賀で死んだ

という歴史は、捏造。

百済民にどんだけ財を奪われ詐欺られ妬まれ家族を先祖を何千年と差別され

悪者にされ、その名誉毀損に加担した人間たちをあたしは死んでも許す事はない。

つまり、鹿島には日吉神社宮司はいらないのと、神社としてあそこに関わられる

事をお断りする。あとたくさん石碑あるが、とっぱらいしてもらいたい。

うちから金を返さなかった相馬藩の関係者に、墓石みたいなものを置かれても

大変困る。

あともう一箇所、秋葉神社に、土地返してとこの前書いたが、秋葉神社の看板

をうちでは買っただけ。土地はうちの先祖のだ。それもここ数日であたしは

わかった。看板は借りただけ。いや、買ったと思う 刀を売って。

そして、先祖たちの墓を守るために神社にした 秋葉神社は看板を売っただけで

あそこ管理されていなかつた理由は、うちの先祖の土地だったからだ。

というわけで、その土地も整理する。

鹿島の人間も原町の人間も相馬の人間も相馬藩に関わる人間はあたしから

ものすごく恨まれてるから。

あとな、阿弥陀は滋賀から盗んだものではなく、天皇を守るために当時持参

させたんだ天台宗で。その時の天台宗は座主が南朝系統だったから。

だからあたしが正統天皇の証。アキヒトも島津貴子も盗賊の子。

だから日本の教科書に今 どう書いてあるかわからないけども、江戸時代なんか

特に天皇なんつーものが目立たない理由 徳川幕府をうちを匿ってた。幕府が。

徳川幕府が。これが教科書にない衝撃の真実。

そんで、徳川幕府前に、明智光秀本能寺の変 これで朝廷が関与してるのでは??

と昔からうわさがあった。それは事実だ。その朝廷、百済朝廷だもの。

うちと関係ない人達。今のアキヒトたちと一緒。昭和天皇と一緒。

日本人からしたら、誰お前??っていうのが 教科書に載っていないだろう

事実。

徳川の時に、北朝の朝廷と南朝の朝廷の事 わかってたんだね。

そんで本能寺の変の時の朝廷は偽者って、家康はわかってたんだ。

だから、その時代になってこっそり南朝天皇を探して見つけたんだ。

その家康がなんでうちを探したか。家康自体が桓武平氏側を嫌ってたからだよ。

その証拠にウィキにもあるだろう。家康はとある家系の家系譜を探してたって。

あと、松尾芭蕉 この前調べたら三重出身。全国を歩いて俳句を作った。

実は俳句は芸術センスが副業で、本業は地図を作るためと全国をまわって

当時の国の状態を知るため。

そのサブにうちで弟子として歩いてた人から松島なんかの地図を手に入れてた。

松尾芭蕉は、徳川幕府の委託を受けて全国までいかなくても、あちこちまわって

日本の現状を確認して歩いた 特派員みたいなものだったと 今 わかった。

今!それを幕府と、うちと行き来してたのが芭蕉の弟子たち。

三重の伊勢は好かん。しかし松尾芭蕉には世話になった 今 そう感じる。

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名称 日吉神社の大杉 (ひよしじんじゃのおおすぎ) ... 旧行政区は相馬郡鹿島町 ... 案内 板によれば、戦国時代(14世紀)、陸奥国北畠顕家の霊山が落城した際、家臣 桑折五郎元家が、の守護神山王権現熊野権現を奉じて落ち延び、ここに山王権現 を ...