陸奥国




当初の国府郡山遺跡と推定されており、名取郡にあったとされる。神亀元年(724年)に宮城郡多賀(現在の宮城県多賀城市)に多賀城が建設されると同時に国府もここに移された。遺跡調査からこの国府10世紀に廃絶したことがわかっているが、文献史料からはその後も多賀国府鎌倉時代南北朝時代に存在したことがわかっている。場所はやや西の岩切駅(現在の仙台市北東部)付近に移ったと推測されている[7]

→これ あたしの推測だけど雷神古墳が4~5世紀
そんで国府は郡山と多賀 これは合ってると思ってる。

その根拠を教えるけど、国府は当時 海 つまり船を移動手段に使ってたフシがある。
その近くが機能するはずだから。あと、雷神古墳 あと塩釜と松島
この中間あたりに位置するのが郡山だったり 多賀だったりする。
郡山と多賀は似たような機関だったと思われる。


6世紀の陸奥の国造は、道奥菊多(のちの菊多郡に相当)、石城(磐城郡)、染羽(締葉郡)、浮田(宇多郡)、思(日理の誤り)、白河(白河郡)石背(磐瀬郡)、阿尺(安積郡)、信夫(信夫郡)、伊久(伊具郡)の10国造である(「国造本紀」)。孝徳朝の後半に第二次の使者が派遣されて、国造制が制へと変わり、道奥国(みちのおくくに)が設けられた。

→6世紀ってことは製鉄遺跡の時期だな
あと浮田(宇多郡) これははじめて知ったね。やっぱり鹿島なんだ。
ついでに言うと、松ケ房ダムって別名 宇多湖って言うんだよ。
つまり宇多天皇 菅公はあたし系統だって言うこと。そして、相馬の熊野神社あたりも
南朝がいたところ。八幡って地名のとこも、南朝のとこ。相馬の黒木っていう地名のとこも
南朝の黒木氏の縁。そこを桓武平氏について、占拠しまくったのが千葉氏から出た相馬だよ。あと、相馬に残ってる南朝の証拠が、宇多川。住んでる人たちは、この南朝の土地にいた南朝血統を貶めて生きてきたんだ、野馬追いでオラオラ騒ぎながら。
そして、黒木が作った城に張り付いてるのは田代冠者。源頼朝の手下で、桓武平氏の味方をしたんだよね。


奥州藤原氏は後の陸中国域(岩手県)にあたる平泉を本拠に、平氏政権のもとでも半独立の状態を維持した。しかし1189年源頼朝の攻撃を受けて滅亡した。

→そう やっとこ ここまできたかって感じ。平氏南朝は組んでたんだ。
それに対抗したのが、源頼朝桓武平氏って事。その頼朝と桓武平氏の流れだよ、今の天皇家って。これがわかれば、定義は行けるんだ。平家と桓武平氏は真逆なんだよ、つまり。


後醍醐天皇建武の新政期には一時期親王任国とされ、義良親王陸奥太守として赴任した。南北朝の争乱期においては、多賀城南朝北朝の係争地として北畠顕信吉良貞家畠山国氏らが争った。南朝勢力の駆逐後奥州管領が4人並立する事態となるが、斯波氏がこの争いに勝利して大崎地方に勢力を扶植し大崎氏を名乗るようになる。その後鎌倉公方足利氏満支配下となるが、子の足利満兼の代となると篠川御所稲村御所を設置するも伊達政宗の反乱を招く。また、奥州の在地領主が幕府と直接主従関係を結び、京都扶持衆と呼ばれる関係を築いた。

→これでいくと、大崎氏は北朝流れ。足利系列も北朝流れ。伊達が反乱起こしたのは伊達が南朝流れだから。辻褄合うでしょ。


鎌倉公方室町幕府の関係悪化によって、幕府は奥州探題を置いた。当初、大崎氏が奥州探題世襲していたが、南北朝の争乱以降在地領主の権限が強く、その権威は名目的なもので、権威が及ぶ範囲も限られていた。戦国時代になると陸奥国南部(現在の福島県北部)の伊達氏が台頭し、伊達稙宗陸奥国守護を任ぜられ、大崎氏が伊達氏の勢力下に組み込まれるに至って、奥州探題の地位も伊達氏に奪われた。
又、松島から気仙郡にかけての三陸沿岸は、石巻を本拠地とする葛西氏が統治していた。しかし、天正時代の奥州仕置きにより、葛西氏は領土を没収され、旧葛西氏領は伊達氏の領土に編入された。

→これ 伊達がいかに凄いかってことと、ここらにどんだけの力あったかって事。
伊達さん 南朝サイドだったんですよ。ただ、陸奥国に島津と北条がかんできてますね。
それが混乱招いたんでしょう。しかし、北畠の前が北条で、その後が島津・島津と続いてますんで、ここは北畠の家系のあたしに陸奥 返していただきたいと書いてるわけです。
それでおもしろくない人たちもいるでしょう。しかし、それがおかげで北海道と東北で、貨物新幹線までこぎつけてんです。これが侵略とみなされるか、共存と繁栄を尊重されて見られてるか その違いです。


現在、東宮七ヶ浜町東宮神社として残り、南宮も多賀城市に南宮神社として残る[10]。北宮は北宮神社(きたみや)として利府町春日神社の境内社として残る[10]。西宮は江戸時代に冠川明神と呼ばれ、明治期に鹽竈神社の別宮に合祀されて志波彦神社となったが、分霊が冠川神社として元の所在地にある八坂神社に境内社として戻った[10]。4社いずれも鹽竈神社の境外末社となっている。

→あと海神信仰 これ そもそも対馬方面から来てるものですが、なぜ古くからあったかと言うと、古くから船移動してたんですよ。その資料が残ってるかどうかなんだけど。
対馬からその信仰を本土に移した行為が 住吉大社なんだ たぶん。
そんで、住吉は ほんとはうちの系統なんだけど、うちの系統 河内源氏桓武平氏の勢力に潰されて逃げるハメになったでしょ?? 塩釜神社と松島はたぶん6世紀より前から
船着場として利用されてると思う。そこがうちらの第二の海神神社だったんだと推測してる。